仁義礼智というものがあり、これを二宮尊徳は家を建てることで例えている。
「それ仁義礼智を家に譬ふれば、仁は棟(むなぎ)、義は梁(はり)也。礼は柱也、智は土台也。されば家の講釈をするには、棟、梁、柱、土台と云うもよし。家を作るには、先ず土台を据え柱を立て梁を組んで棟を上るが如く、講釈のみ為すには、仁義礼智と云うべし。之を行ふには、智礼義仁と次第して、先ず智を磨き礼を行ひ義を蹈み仁に進むべし。故に大学には、智を致すを初歩と為り」
これは仕事中居眠りをしてしまったりする他人に対して、まず願を立てることを説き、そのあとにどうすればそういう愚かなことをしなくてもすむのか、その方法について語ったものです。
意訳すれば、仁義礼智の順番でそれを身に着けるのではなく実際は智礼義仁の順番でそういう愚かなことをしなくなるのだと説いています。
家を建てるのを自分が自立することとかけています、その上でまず土台とは智慧を磨くこと、仕事で言えば細かいけれど必要な能力を身に着けること。書類作成から、確認、報連相、企画書、仕事のやり方などがそれになります。その次には、礼といいマナーや挨拶を含め、TPO含め、その口調や態度、そういうものを身に着けます。次には、義という理念や理想を実現するために正しいことがやれるよう本質を見抜く力などを身に着け、最後に思いやりや真心で日々を慎みながら実践していくということをやるといいといいます。
これは私はとても大切なことだと思います。
如何に、真心や大義を教えようとしてもその土台である智という仕事のやり方を身に着けていない人にいくらいってもすぐに愚かな失敗をして結果的には身に着けようとしなくなってしまいます。または、礼儀やマナーがなっていなければいくら真心や大義を語っていてもとても残念な姿をみせることで周囲を失望させてしまいます。
まず仕事の仕方ややり方ということがプロフェッショナルになってもいないのに、真心や大義などを教えてもそれを十分に理解することができないでいるのです。これは別に比較対象で言っている意味ではなく、そういう仁義礼智が丸ごと備わっていることが大切なのだということを言っているのだと思います。
すぐに人は、真心さえやっていればと仕事の仕方を磨くのを怠る人がいます。または大義さえあればとマナーに疎いひとがいます、もしくは仕事もマナーもある程度理解があるのに、心をこめることのない作業ばかりになっている人もいます。
このどれかが具わっていないから、愚かなことが起きてしまうとも言えるのです。まず自分を磨くということがどういうことかということを二宮尊徳は説いていて、そしてその手順としてはどこからやればいいかということを諭してくれています。
本質から考えれば、欲を立てるのではなく願を立てるのだからこそ上記に気づけるのであろうと思います。願を立てるとは、今の時代では目標を立てることなのかもしれません。まだまだ学び直していこうと思います。
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カグヤで言う土台を考えたときに、私は理念が浮かびカグヤで働くことの基礎であると感じています。バスケマンガの『スラムダンク』では赤木が花道に「キサマはスポーツというもんが全然わかっとらん!!基本がどれほど大事かわからんのか!!」」と言い放っています。基礎は地味な印象を感じますが、カグヤに置き換え考えたときに理念の大事さを考えさせられます。たとえ話が極端かもしれませんが、仕事をする上で何が大切なのかを改めて考え、取り組んでいきたいと思います。
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理想と現実という事がやはり頭に浮かびました。今迄理想(理念)を追い求め学び大事にしてきたのだという事は私自身の中でも感じている部分です。しかし現実をしっかりと向き合い見て実践してきたかと考えると怠ってきたことを反省させられます。どちらかに偏ることはやはり良くないと思いますし、思いは胸に秘めその為に今何を遣るべきかの方を今は大事にし実践を行っていきたいと思います。
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思いを形にするのは技術であることを実感します。
思い無しに技術を多用すれば、世は乱れると思いますが、
世を治すという思いを実現するには技術が必要であるのだと感じます。自分自身、思いだけで何とかなると考えながらも、実際はその思いというものに責任を転嫁し、思いさえ持っていれば技術はついてくるのだと考えていました。しかし、思いも技術も得るのは自分であり、本当の思いとはその自分で行う自覚を伴った思いの事であるのだと感じます。言い訳のような理想論としての思いではなく、泥にまみれてでも貫きたい思いとは何か。改めて自分を見つめて行きたいと思います。