人生を学ぶというのは、自分と向き合うともいってもいい。
本来の自分の人生を本気で生きよう、生き方や働き方を本気で決めようと思えば思うほどに真剣に悩むことは増えていくのだと思います。本気で生きるからこそ、本気で悩むことになるのだと思います。悩みがないのは、本気で向き合おうとしないからというものもあります。もちろん、人生と向き合っているからこそ悩まないというのと、向き合わないから悩みがないのとではまったく生き方が異なることはすぐに分かります。
時の流れの中に生きている私たちだからこそ、本気で流れるのと、ただ流されているのとでは意味が違うのです。私は何歳になっても、どんな状況下にあっても、この自らの生き方というものをどれだけ真剣に向き合うかというのは人生のテーマそのものであるのだろうと思います。
論語に、「子日わく、憤せずんば啓せず、非せずんば発せず。一隅を挙げて、三隅を以て反らざれば、則ち復たせざるなり。」というものがあります。
ここから「啓発」という言葉が生まれました、あの橋本左内の啓発録の啓発も、同じくこの文字から取ったものです。意訳すれば、「師はこう仰いました、自噴してどうにかするぞと思い、何がなんでも自分が解明するのだと自発もしないようである人には何も教え導くことはできはしない。例えれば、四隅の一隅だけ教えたらあとの三隅は自分自身で掘り下げ学び掴み取るような人でなければ、結局は何一つものにしていくことなどできないからだ」と。
つまりは、全部教えてもらわないといけないような人では学ぶことはできていないし教えることなどそもそもできないのだということであろうとも思います。
今の時代は、学校でもそうですが全部教えてもらわないと意味を理解しない人が増えています。もちろん伝える側の問題もあるのだと思います、私も自分の言葉が本当に伝えるものになっているか真心で発しているか、相手を思いやったものになっているのかを省みると本当に未熟であることを恥じる事ばかりです。
しかし同時に、同じく師の言葉や誰かの意見に対してどれくらいその意味を自分で解決しようとしているかと思えば、まだまだ他人事のように聞いてしまっている自分もいるのです。
常にテーマを持って生きるには、問題意識や危機感を持って自分自身を育てていく必要があるように思います。それは、自己啓発していくということであり、この啓発とは何が何でも自分でどうにかするのだという潔く禊をし、自然の前に独りで立つような心構えが必要なのです。
すぐに誰かに頼ろうとするのは、まだまだ啓発が足りないともいえるのです。自分の中にそういう甘えを断つことができれば、それが皆で協力してチームでやっていくことになるのです。チームの中にそういう自己テーマを持たないで船旅に参加するというのはとても危険なことです。
子ども達が健やかで幸せな自己実現への道しるべになるように。それぞれの人生の大テーマや大ミッションなどと真摯に正対して人生のテーマを味わっていきたいと思います。
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今より善くするためにどうすればいいのかと、頭から考えが薄らいでいかないことを思うと、向き合おうとしているのだと感じます。あるクルーが「今作業している仕事のその先にあるところが、本当の仕事の意味」だと言っているのを聞き、クルーそれぞれがカグヤの仕事とは何かを考える大切さを感じています。
個人的な悩みではなく、より善くなるためのほうに時間を遣い、人生に向き合う自分でありたいと思います。
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本気で生きるとは、やはり自分で決め行動する事だと思います。ブログにもあります様に何も考えずにただ流されるのと自分で考え抜き決めた中で自分から流れるのでは全く違うのだという事を今までの経験や体験からも感じます。ここ最近では自分が何かを行う際に、本当に自分が遣りたいのかを確認しています。自分で決めているからこそ誰に何かを言われても本当の意味で最後まで遣りぬけるのだと思います。
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先人が気づいた事を全部教えてもらっていたら、自分で気付く楽しみがなくなってしまう。そういう風に考えることが出来る為にも、
自分の人生を自分が楽しくしていくという事が大事なのだと思います。社会や境遇の所為にして楽しんでいないのは、本当にお門違いなのだと実感します。もっともっと、ワクワクと目の前の人生と向き合っていきたいと思います。