支配と共生

何かを支配するという考え方というものは、そもそもどこにでも存在する。
それが戦争から金融や石油に代わるだけで、支配するという考えはなくならない。

そもそも自分のものではないものを自分のものにしたいという考え方は、共生していこうという考え方から外れている。お借りしているや、来ていただいている、御蔭様などという気持ちで接するのはそもそも共に生きる方を優先したからでもある。

欧米では個人主義を基盤に、様々なルールを設けてそもそもバラバラであるものを繋げようとする。一見、個人の自由は尊重されているようだけれどそのためには集団のルールに従ってもらうといった暗黙的な約束事がある。

私たちアジアでは、そもそも皆で仲良く調和していくことや、周りと一緒にというもともと一つであるということから繫がりを大切にしてきた民族である。一見、集団を優先し個人の自由がないようにみえても実はその中で道徳規範に従ってそれぞれに個人が律して皆の自由を尊重している。

この繋がりや絆というものは、そもそも個がバラバラからスタートしているのと、個が一つからスタートしているのではまったくその定義も異なってくる。

繫がりや絆というものは、共生していく中で出てくる言葉であり、それぞれが自生していると勘違いしている中で芽生えるものではない。

一つの大地に、たくさんの生き物がいることを知ればそれはすぐに分かることなのです。

私たちは、子ども達に教えるのはルールなのでしょうか、それとも繋がりや絆なのでしょうか。
支配するためのものか、共生するためのものか。

本来の在り方を学び、人としての道を学ぶことはいのちの廻りを絶やさないことなのです。
色々と起きる毎日ですが、自分の使命は次第にはっきりしてきます。

有難うございました。

  1. コメント

    共生とよく聞きますが他の生き物いのちと共に生きたか、知らない間に支配していなかったのかと考えると、言葉だけが独り歩きし、私自身考える余地もなかったことを思うと、支配とも共生ともどちらとも言えない、どちらからもかけ離れているところで普段生活していることを感じます。支配と共生の中間としての間でも、人との間で考えているのでもなく、自分勝手に捉え考えていると感じました。種も生きているというお話は今年一番の気付きです。

  2. コメント

    繋がりや絆とは、自分と繋がっている人、自分と絆がある人との間にあるものという風に、どこか心の中で感じている節がありました。しかし、今日のブログを読んで、繋がりや絆とはすでに自然の中であるものであり、自分が気付いていないが周りにはすでに全てあるのだという事を感じました。無い、足りないのではなく、既にあるという事。周りの所為ではなく、自分次第であるという事を思うと、とても安心します。トータル提案のお話の中にもあった、本来はどうだったのか?!という観点から考えるという事に共通するのだと感じます。

  3. コメント

    やはり今の時代はもともと一つであったという事を感じれる場面はほとんどないのではないかと思います。家族の事を考えてもそうだと思います。もともと一つであったものが人が繋がる中で増えていき家が反映してきたのが過去だと思います。しかし今では家族が増える事がどれだけ素晴らしい事なのかを感じる事が出来ないまま故郷を離れ自分だけの事を考え生活している人の事を考えるとやはり残念でなりません。子どもたちにはもともとある幸せな事を感じれる環境を残していきたいと思います。

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