先日伺った自然養鶏でとても興味深い話を聴いた。
善い卵というものは、美味しいものというわけではないということ。
つまりは、 世間でいう善い卵は人工的に卵が美味しくなるように動物性たんぱく質などをを添加し人間の味覚に美味しくしようとするものだけれど、鶏にとっての善い卵は雑草や虫、土などをたくさん食べた卵であるという。
これは卵でも前者のものは孵化率が低く生まれた雛もあまり健康ではない、しかし後者の卵は孵化率も高く雛も健康であるということ。言い換えれば、人間の食べるための卵が善い卵という定義と、鶏にとって善い卵かどうかということでもある。
そう考えると、善いものというものは人間にとって都合が善いものと、そのものにとって本来善いものというものがあるということです。
善いというのは、元々であったから善いということ。
本来の姿が一番善いという意味でもあろうとも思います。
子ども達のことを考えてみても、もともとの子どもらしさが善いという声もあるなか周りは様々な子どもにとって善いだろうというもので保育や教育をするものです。しかし実際は、師からの話でもありますが保育や教育とは本来のものを忘れないようにすることや引き出すことであるというものです。
自分たちの都合の善いようにと教育していくことは確かに人間にとっては善いことなのかもしれません、自分たちのために働いてほしいからです。しかしそれが果たして相手やその生き物にとっての幸福であるとは限りません。その時の関係は服従関係となるのです。
しかしもし本来そのものがそうしたいと生きていて幸せであるものを活かし、その中でお互いに助け合い生きるのであればそれは幸せを享受しあえているともいえます。その時の関係は共生関係となるのです。
私たちはあまりにも自分たちの都合の善い方へと、それが善いことだと言い切って断行しますがそれはあまりにも視野が狭いのではないでしょうか。
人間だけで生きているのであればその視野になるでしょうし、今の大人の社会だけが中心であればそういう視野もあるでしょう。しかし地球全体でや自然をトータルでや、持続している方の社会から物事をよくよく俯瞰して観察すれば如何におかしなことをやっているかはすぐに気づけるはずなのです。
善いといっても、誰にとって善いのか?それが自分たちだけになっているのは常に視野狭窄であるのだと思います。自分の存在が如何に世界のお役に立てるのか、すべての生命はそれを感じているようにも見えます。
あの植物もあの昆虫も、そして動物、菌、石も太陽も月も、みんなそう願っているかのようです。そういうものと一緒に生きられるということはとても幸せなことであろうとも思います。今のような時代、大切なことを忘れてしまうのはその善いことという落とし穴である気がします。
まだまだ刷り込みを取り除くことに専念していきたいと思います。
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人間にしても動物にしても植物にしても本来ある姿が自然な姿でありそれが善いというのは子どもたちを見ると感じます。私達大人が関われば関わろうとするほど子どもは子どもさを失い自然な姿ではなくなっていきます。それを考えると大人である私たちの役割は何なのか考えさせらえます。今の人は何でも自分にあった価値観や効率化などを求めて自分があわせる事よりも周りをあわさせることに努力します。どうする事が自然であり一番善い事なのか今一度見つめ直したいと思います。
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都合のいいように捉え、物事を断定するような言い回しは他を受け入れないことでもあり、曖昧で情緒的な折り合いが他を受け入れる事のように感じています。イエスかノーで判断しない価値観は、これから大事になる視点でもあるように感じています。人の言う善いとは何なのか、流されず自分で考えることを実践していきたいと思います。
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元々、自分自身はどうだったのかという視点や、元々人間はどうだったのか、自然とはどうなのかという観点をもって接していかないと、良いと思ったことも結果は自分たちを苦しめてしまう事につながるのだと感じました。「三方よし」という言葉がありますが、「売り手よし、買い手よし、世間よし」に続いて「地球よし」というような、意識を持っていくことを大事にしていきたいと思います。