平和ボケというものがある。
一般的には、戦争から長く離れていたから戦争のことが分からなくなっているという風に言われているけれどそれ以外にもこの言葉の真意は別の意図もあると思います。
例えば、何かの問題を議論するとき、右寄りか、左寄りかという言い方がある。戦争でいえば戦争賛成派か戦争反対派か、それで右翼だ左翼だとすぐに言い合いになっているけれどそれこそが平和ボケという意味ではないかと私は思う。
子どもの問題でも、何か制度の話があればすぐに極端にどちらかの議論ばかりになり中間と言って決定したものはそのほとんどがどちらにとっても顔を立てた内容になっていてもっともらしいけれど、実際は単に先送りですと書けばいいのにと思ったりもする。
時間をかけてそんなことをやっていたら全員疲弊してやった気になるだけで言い訳しか残りません。こういうものも平和ボケというのではないかと思う。
本質的なものとは常に割り切れないものがあり、情緒的な言い方であるけれど矛盾を維持する魂の決定力が必要になる。つまりは、中庸というものは本質を正しく捉えているかというものがある。当然、民主主義なのだから議論して決めるのだけれど、なぜ議論が深まらずそこまで辿りつかないかというのはやはり平和ボケしているからであろうと思う。
人は本当の意味で切羽詰らないと本気で本質を遣ろうという決断をしなくなるものです。
ある大企業で改革を成功した人も、そのうち平和ボケしまっていることが多々あります。成功すると、平和ボケするというのは歴史を観ても必然であろうとも思います。
真のリーダーは常に切羽詰っている状態を維持しながら心は穏やかに遠望熟慮できるし環境に左右されずいつも正確な判断を失わず常に自らが中庸や本質であろうとするだと思います。
そしてそういう状態の事を決して平和ボケしているとは言いません。
つまりは周りの環境に流されて、本当は何かを見失っていることがこの「ボケ」という定義なのです。
だからこれは平和ボケだけではなく、戦争ボケ、平均ボケ、集団ボケ、時間ボケなど、「ボケ」にはキリがありませんが、本来は何をすべきか、どうあるべきか、正しい判断ができなくなるほどに「周囲の環境に刷り込まれている」ことを私はボケていると定義するのです。本来どうあるべきかということを考えない、根源的にどうなのか思わない、根本的なところに戻ろうとしない、それが問題なのです。
しかし事は深刻なのです、目覚めてもらわなければ子ども達が大変なことになるのです。
人類はいつもこのままではといいながら、このままではの結果になっているのです。
では何のための議論なのか、悲しいことです。
失敗から学ぶ事がなくなり、過去の悲惨な出来事を忘れてしまうこと。
そういうことをなくす怠慢な今の実状こそがボケなのです。
まだまだ私には力不足で世界のボケを目覚めさせるほどはありません。
しかし、子どもを思う心に一点の曇りなく一滴の雫の大切さを信じて取り組むだけです。
当然、いのちを使うのだからまずは自分がボケないよう常に平常心で真摯に理念とビジョンを実行していこうと思います。
ボケないよう今を極めます。
コメント
楽観的な考えは問題解決を先延ばしにすることになり、現実から目を背けることが問題なのだと感じます。気持ちとしては楽な方に行ってしまいますが、自分自身が成長する方を選択し続けなければ感覚が鈍っていくのだと思います。社内での課題も先延ばしすることなく、一つ一つスピードを上げ取り組んでいきたいと思います。
コメント
今の時代子どもに関する問題は取り上げられるもののやはり問題を本質から解決するには至っていないケースが多くあるのだと思います。そこには子どもの為にと言いながらも自分たちの為にとやっている大人の存在があるからだと気づかされます。今の子どもたちの置かれている環境やこれから先の未来の子どもたちの姿をどこまで考えているのか、その中で私たちは今何を考え残していくべきなのか、もっと子どもの気持ちになり子どもの事を考えて行く事が必要だと感じます。
コメント
ぼけている時にはそのぼけに気付くことが出来なかったりするのだと思います。自分自身の調子や気分とは関係なく、本質に気付けたり、ブレを見つけることが出来る習慣を身に着けなければならないと危機感を感じます。このブログを日々読むこともその一つではあると思いますが、手を合わせることや空を仰ぐことや、静寂を聞く事などそういった習慣を大事にしていきたいと思います。