人は何かしらの思い込みというものを持っている。
その時代、その時代で、意識の中で記憶したものをそのまま同じだと思ってしまう事であったり、自分の意識に一度刷り込んだイメージがあれば何かを認識するとき常にその思い込みというもので想像を補っているという具合になる。
人の思い込みは、例えば食べものの好き嫌いであっても、ある人はウニが好きだけれどある人は嫌いとある場合は、その対話をするとき過去の何かの記憶やイメージで話をしているということになる。同じウニを食べたわけではないのに好き嫌いというのは思い込みであるかもしれません。そしてもう一つの例では、幸せの定義でも、幸不幸について語り合うとき、同じ幸せか分からないのだから幸せだ不幸だと話したとしても単に思い込みを伝え合っているだけの場合でもあるのです。
御互いが同じ体験を積んでいないのだから、それは分からないということです。
過去のある時代に残った書物を読んでいても、なぜその真意が汲みとれなかったり、その本質を味わえないかといえば、言葉は今の自分の体験からの憶測でしかないからなのです。
同じ体験をすれば成り立つ対話も、同じ体験をしていなければちぐはぐであるのです。
つまりは、御互いが同じものを持っているかを確かめているものが対話ともいうのです。
先生の「一生懸命やりましたか?」という質問に、生徒の「はい、一生懸命やりました。」がありますが、こんなのはおかしな話で、何を持って一生懸命かという前者も後者も同じだけの一生懸命かが具体的に分からなければ本来はまったく対話にならないはずなのです。
この思い込みでそのままスルーするということは、そもそも勘違いをたくさん産んでいるのです。それで話した気になっているのは大きな勘違いで対話になっていないことを意味します。
その人にとっての言葉は憶測で理解できたとしても同じ経験も体験もしていないものを分かったとはいいません。あくまで分かった気になっているということなのです。思い込みあいながら推測と憶測で進めるということはあまり効果がないのです。
やはり物事は理解することよりも大切なのは、実行することです。例えば同じく誰かのお役に立ちたいと一念発起したのであれば、その人と同じ体験を積むことだと私は思います。
それは簡単な言い方にすれば、同じことをやるということなのです。
よく語られる真心や徳というものは、理解している世界にあるものではありません。先人たちの言葉もこれはあくまで、心と形を日々の同時の実践を通して学びあっていくのが本質であろうと思います。
本当に人生は上手くできていると感心することばかりです。頭で分かっていても課題を解決できるわけではなく、文字通りそのものと一心一体になってそのものと同じになる努力が必要です。
大切な人たちと苦しみを分かち合うのも、歓びを分かち合うのも、悲しみを分かち合うのも、楽しみを分かち合うのも、人間であるという同じ体験が必要だからだと私は思います。
日々の小さな実践を増やしつつ、先人たちの道と同じ領域が掴めるよう理屈や思い込みを取り除きながら精進していきたいと思います。
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先日の社長のお話の中で、「どんな仕事も楽しむことが出来る人と、どんな仕事も大変と考える人がいる」というお話がありました。そのお話も、同じように仕事に対するイメージが人それぞれ違ってくるのだと感じました。どんな物事も、人それぞれに異なるイメージを持っているのだという事を改めて自覚しなくてはならないと感じますし、また、自分自身の一つ一つの物事に対するイメージも、常に刷新させていくこと、そしてイメージを持つ自分自身の感性を建設的にしていきたいと思います。
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昨日の昼食の話もそうですが、言葉についても今までの自分の記憶や経験、強いイメージだけで思い込んでいる事があるのだという事を気づかされました。同時に怖さも感じました。今まで同じように使っていた言葉がそれぞれで全く違うものをイメージしていたり捉えていたりすればその後の言動もきっと変わっていくはずです。これが仕事でも起きているという事を考えるとゾッとします。今社内では言葉の定義について毎週話を行っていますが、その日だけでなく出来るだけ自分から自分がイメージしている物を簡単な言葉だけでなくイメージ出来る物で周りに伝えて行く工夫が必要だと感じます。
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過去の経験から先が見通せることは、経験の学びであると思いますがその時の状況によって展開が変わることも常に予測しておかなければならないことを感じます。言葉一つ一つの意味をお互いが理解していくことは時間が掛かることですが、それがカグヤの文化になっていくことであるとも感じています。また自分自身が普段どのような意味で言葉を遣っているかを再認識する場ともなり、思い込みに気付く機会は仕事をしていく上で重要なコミュニケーションだと感じています。