奇跡の感性

日々に歩んでいく中で時折振り返っていると、奇跡というものについての定義が変わってくる。

もともと世の中で奇跡と言われるものは、自分の思っている通りになったり、もしくは思ってもいないところから不思議なことが組み合わさって考えもしなかったことが起こったりするときに使っているものです。

しかし実際はそういうものは奇跡というものではなく、偶然にそうなったというだけだということになります。

本来の奇跡とは、この生きている今のすべてそのものではないかと私は思います。

例えば、目に映る今の景色、今自分が感じているもの、生きてきた思い出、多くの人たちの繋がり、そのどれもがあるはずのない奇跡の集積であるのではないかと思います。

特に今がなぜこうなったのかと振り返れば、あの瞬間瞬間の判断や出逢いこそがあの人や自分を景色をこの今のすべて生み出してきたのだと感じればまさに奇跡そのものを生きているのではないかと自然に覚えることができるのです。

何気ない日常、奇跡など滅多に起きないような意識があったとしても、実際はこの何もないこと自体が奇跡の中にいることなのです。

当たり前のことの中にこそ本質があり、何よりもかけがえのない大切なことは存在しています。こういう奇跡の感性がいつまでも心に在るよう、今を常に真心のままに精進を重ねていきたいと思います。

 

  1. コメント

    当たり前と感じていること、実は奇跡という見方をしないと今の在り方からは抜け出せない自分がいるように思います。何にでも共通することだと思いますが、当たり前となっていることには本当は見ても考えてもいないから、気付かない自分になっているのだと思います。見てるふりからもう一度、意味を考える見方をし改めて物事を考察していきたいと思います。

  2. コメント

    週末に養老孟司さんのインタビュー記事に触れる機会がありました。その中で、意識というものは「同じ」であることを求めようとするという事をおっしゃっていました。意識の中では昨日と今日が同じであり、自分自身もいつも同じであると刷り込んでしまう。しかし、子ども達はそうではなく、自然であり日々違いを気付いている。そうおっしゃっていました。自然を大切にするという事は、子ども達を大切にするという事と繋がるのだと感じます。この点を深めて行きたいと思います。

  3. コメント

    どうすれば何気なく過ごすことが辞めれるのか、最近は自分の中での課題になっています。しかし以前に比べてこの様な事を考える事が多くなっていいるのではと自分の中でも感じています。多くなれば自然に当たり前な事など無いことに近づいていけるように思います。全てが当たり前にならないように人に対しても物に対しても感謝のその意味を忘れないよにしたいと思います。

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