学校での一斉画一化された教育を受けてそのままにしていると、たくさんの刷り込みにあってしまいます。
例えば、自分らしくいることはよくないことであったり、自分が自由にいることが罪悪であったりと、本来の自分というものを自然に理解していくことが難しくなるのです。
そのことから、弱みばかりを注目して弱みばかりを解決しようとしてしまう癖を持ってしまったりしてあまり変わらないけれど努力していればそれでもいいというような非建設的な方法ばかりを選択してしまうこともあるのです。
本来、強みを伸ばすという考え方は自分らしくいるとき、自分が自然で居るときもっとも貢献できるもの、皆に喜んでもらえるものを優先することで伸ばされてきます。
引き出すというのは、誰かによって引き出されるのではなくその人が自然に自由であるとき、つまりは安心して自分らしさを発揮することを喜びに感じているときにこそ出てくるものなのです。
いつも何かを行うときに、主語がどちらかということでその人の刷り込みが観えるのです。
例えば、私たちの仕事でも大人が主語なのか、子どもが主語なのか、発酵技術でも人間が主語なのか菌が主語なのかでも、その人の刷り込みはよくわかるのです。
そして当然、この国では国家が主語であるから個々の人権というのは主語ではありません。
教育は誰のためにあるのかと思うとき、それはやはり本来はその人たちの幸福で豊かな人生のために用意されているはずのものなのです。しかし、それが今の社会システムなどに呑みこまれ、本来の姿から外れてしまっていることに気づかなくなっている人も多いのです。
子どものための施設が、実際は主語は誰のために施設になっているでしょうか。
人間は謙虚でなければ、相手を主語にできません。
自分がやったのだや、自分の力でなど自己満足や自己欲求が優先するのでしょうが本来は感謝や御蔭様、皆様の協力があってと思う方を優先しなければ、結局は刷り込みに巻き込まれるのです。
もっとも刷り込みを取り除く方法は、今の現実が当たり前だと思わないことです。
それは自然のことを当たり前に思わないこと、元々の姿を実感することだと私は思います。
子ども達のためにも、何が本当のことかから外れないような生き方を示していこうと思います。
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お時間を頂く際に、感謝の気持ちを表すより先に要件から入ってしまうのは、主語を言わずとも自分都合であることに気が付きました。言葉でなくとも姿勢で現れることを感じ、謙虚であることは行動と伴ってこそのものだと感じました。言葉だけでなく行動もどこに主を置くのか考え、あり方を考えたいと思います。
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お客様と会えるという事、経営者の方々とお話が出来るという事。いつの間にか、当たり前のようになってしまっている自分がいると感じます。本当に有難いことの積み重ねで今があるという事に気付けないと、自分らしさや自分の役割は果たされないのだと感じます。改めて今あることの有難さに目を向けて行きたいと思います。
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自分自身の体験からも周りにあわせなければいけないや同じでないと怒られるという刷り込みが今の学校教育でもやはりあるように思います。しかし結果的には受け身な人を作り、無理をする人を作っているのが今の課題だと仕事を通しても感じます。人が生きていく上で周りに自然にあわせていく事は大事だと思いますが、今はそれが不自然であるのは間違いないと思います。