先日、ある打ち合わせの中で「この世は平面で視るのではなく球体で観なければ分からない」という話が合った。
もともと私たち人間の目では、何でも二次元の平に見えてしまうものです。対立する物の見方というのもこの平面から起きる事です。多面的に視るといいという言葉もありますが、これは数々の平面をいくつかの方向から眺めることでそれを合わせれば次第に立体に見えてくるから本質に近づくということをいうのです。
平面で理解するということは実際はできず、それらは自分の創造力で補うのです。
紙面では分からないものが本質だからです。
本来、宇宙も地球もすべてのものは偉大な円の集合体でありそれは球体の重なりあった姿とも言えます。球体とは、様々な円でありその円がたくさん集まったものが球体であるのです。水面に落ちる雫も、すぐに球体の模様を描き消えていきますがあれもまた球体であることの証明なのです。
全部の物事を対立的に分けて考えるという発想は、そもそも球体ではないという偏った視野の捉え方なのです。ほとんどの人は、自分の感情や自我があるから自分から見える一方の方向からでしかこの世の中を見ようとしません。
三人寄れば文殊の知恵というのも、そもそも三人の眼があれば次第に立体になって観えてくることをいうからです。私のよく利用する言葉では一円観といった二宮尊徳が開発したすべてを円の中で透視するということではじめて物事の偏りの本質を理解することができるのです。
この一円観というものは、対立するものではなく円の中で物事を捉える方法のことです。
多面的に見るのでもなく、円、つまりは全部丸ごとにして観るのです。
この世が循環するのも、この世の縁が回り逢うのもすべては球体であるからなのです。
その球体が交わるとき、天の運行の中に自分が在ることを実感するのです。
そしてそういう球体の中にいる一部としての自分を感じているとき、次第に心も澄んでくるのだと思います。自らの心が澄むことで、より空間の妙を感じることができるのだと思います。
子ども達のことを見るときも、それは立体で球体で感じることだと思います。
全部丸ごとという感覚があってこその認めるであるのだと思うようになってきました。
子ども達のためにも、忙しくなり余裕をなくし一方的な眼だけで物事を裁く情報に流されないように日々に注意していきたいと思います。
また今日も自然の理法を学ぶご縁をいただきました。
子ども達のためにも見守りの中で譲れるものを転じていきたいと思います。
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距離感を保つことや間を大切にすることは、相手への配慮や思いやりでありそのためには、自分から先に動き必要な距離を自分自身で詰めていかなければいけないのだと感じています。自分から先に動き、相手への配慮を大切にしたいと思います。
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物事を立体に捉えそれを廻す発想で、全体像を掴もうとしていましたが、そもそも一円というところから自分自身離れていたように思います。大元がずれていたらいくら廻しても揃わないことを痛感しました。円、丸ごとということから再度考え、全体像が見えるよう形作って行きたいと思います。
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二人が正対する間にあるものを見たとき、ひとりからは右側に見えても相手からは左側に見えるという事を考えたとき、良いという事や悪いという事も同じように、言葉は違うが同じであり、面で切り取るものではないのだと感じました。また、二人だけではなく、物事には地球や天や様々な観点から見ることが出来る事を考えると、それぞれの観点からものを見ると丸くなるというイメージを持ちました。いつも、自分の視点ばかりで見ていないか、自分と相手ばかりの視点で見ていないかと気を付けて行きたいと思います。
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保育の現場でもどうしても偏った見方をしてしまい悩んでいる先生が多くいます。子どもたちの表面的な部分だけを見て関わるのではなく子どもたちの心の部分も含め全体を見ていく事がここでも大事だと改めて考えさせられました。自分自身の仕事もそうですが、常にこれでいいのかと自問自答し、周りの意見を素直に聞き入れる自らの姿勢が大事だと思います。