至純の魂

自分とは何か、そういうものを考えずに生きている人はとても多い。

人は誰しも道を求めていれば、自分とは何かということには出会うものです。
しかしそのうち道に彷徨い、自分とは何かが分からなくなってしまうものです。

それでも自分とは何かと向き合う人は至純の人ともいえるのです。

自分が何者かを知りたいと追及していく人は、いつの日か天命に出会うのでしょう。
論語に、五十にして天命を知るとありましたが道を歩むことの大切さを実感します。

向き合うということは、自分とは何かを知る道筋でもあります。
みんな誰しも、向き合うことは嫌なことです。

このままでもいいではないかと思えば確かにそうで、だからなあなあとしているのです。
これは相手の個性や実力、能力に関係せず、誰しもが等しく同じく苦しいものです。

だからこそ向き合うということはとても孤独な作業であるのだと思います。しかしそこに友がいる、同志がいる、師がいるとこの道がとても豊かで楽しいものになるのは本当に出会いの邂逅が不思議であることを証明しています。

人は、「みんなで歩めば怖くない」ではないですがきっと自分の道を求めている人たちと歩むことを志す仲間と共にすれば自分らしくでいいのだと自然に己を信じることができるのだとも私は思います。

しかしだからといって向き合っているのは自分自身ですからどんなに現実が受け容れ難いものであっても、どんなに現実が都合が良い物であっても、自分自身が実践を通じて常に問い続けていかなければならないのです。

これをやり遂げたいという至純の夢、それは自分に向き合いたいということではないでしょうか、本来の自分とは何かに気づきたいのではないでしょうか。

誠実に生きていれば、いつかは刷り込みが取れ真実の誠実の意味も分かると思います。
そして素直に歩んでいれば、そのうち刷り込みがなくなり真実の素直の意味も分かるのです。

王道とは、至純の魂で居続けることではないかと改めて実感しました。
これからまたその方との新しい人生のはじまりを乾杯していきたいと思います。

  1. コメント

    「自分とは何か」問うことをやめれば一時は、気持ちが楽になると思いますが、その状態が続けば堕落していく姿を感じます。自分とは何か、自分で考えるとは何か、今後自分と向き合う中で大きな決断を迫られる過程として、自問自答しているのだと感じています。その時に自分自身が後悔せず、決めきるために日々向き合うことを避けずに歩んでいきたいと思います。

  2. コメント

    志が高いと周りが気にならず、また多様性の意味を理解できるのだと感じます。様々な人たちが居るからこそ自分が居る事、また循環が生まれる事を感じます。実践を怠ればそれが見えなくなり、比べたり、同一の価値観を探したりして視野が狭くなってしまう事も改めて感じました。思いと実践の量を増やし、視野を広げて行きたいと思います。

  3. コメント

    自分の脳が嫌がる事を遣るのは大変な事だと今までは思っていました。しかしある意味で脳と心は別物だと感じる時があります。心ではこうしたいと素直に思っていても、今までの経験からマイナスな要素を沢山考えてしまい新たな取り組みをいつの間にか止めてしまっている事があります。頭で考えるのではなく、心で感じたままの自分でいられるためにも、もっと自分と向き合う事が大事だと改めて感じます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です