人は目で見て脳で判断をしてしまう生き物です。
目は、様々な自分の判断を通して見て自分との関係を探っています。
昔から百聞は一見に如かずではないですが、目で確かめて疑いを解くのです。
しかし目で追いだすと、ずっと見ていないと不安になっているような心境に陥ります。
そして一度追いはじめれば自分の不安が募るその証拠を確認するようになってしまいます。
どんな小さな諸動作であっても、振る舞いも、表情も、自分がまず信じたいから確かめようと疑いから入っていればそれは疑いの答えを探してしまうからなのだと思います。そんな気がなくても、相手から疑われていてはその人は次第に周囲の目を気にするように変わっていくのです。
見てはいけないものを見るというのは、自分の中の迷いや不安を増大させていくのです。
この目で見るというのは、目だけで見るというのと、心を通してから観るのとは異なります。
信じるの反対は疑うではなく、信じるの反対は刷り込まれることだと私は思っています。
そして刷り込みとは、以上の話で言えば心を通すことができなくなることをいいます。
つまりは本来の自分自身のことが分からなくなるということでもあるのです。
あまりにも周囲を目で追えば、本来、観ているはずだった今の心が刷り込まれるのです。
自分自身にいつも素直になれば、人は今の心に映る天を観て、自らの道を感じながら穏やかな平安の中で日々を歩んでいくのだと思います。そしてその時、いつも自分が見守られていること、言い換えれば自分を絶対的に信じるということを感じるのです。
このかんながらの道も以上と等しく、自ら信じて歩んでいく道とも言い換えることもできます。
つまり活かされているという当然の事実を直観するのだと思うのです。
人は不安になるのは、目が刷り込まれるからです。
日々に刷り込まれないように生きることは信の実践とも言えますがこれは生涯続けていかなければ道から外れてしまうのです。心の実践ともいうのでしょうが、目に入ってもそれを別に追わなくてもいいのだと気づくことです。
先人たち、聖人たちはみんな自分の人生を、その道を「信」で遣り切ったからこそ刷り込みのない自分らしい人生を生き抜くことができたのではないかと私は思います。怖いと思うこともあったでしょうし、囚われてしまう日もあったでしょうが、それでも日々に信に取り組んだのです。
実践していくことは日々だと肝に銘じて、分かった気にならないように精進しようと思います。
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日々の中で周囲の動きが気になるときは、外面的なところに目が行き本質的なところは見えないことがあります。心が狭くなっている時に自分自身を省みる時、相手ではなく自分自身の行動を改めようと頭では考えても、心が納得せず矛盾との狭間で過ごす事があります。日々、一喜一憂するのではなく目の前のことに集中し取り組んでいきたいと思います。
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最近、自分自身の感性は今日という時間よりも前にも後にも生きることが出来るのだと感じました。感性は鈍れば今日の事を気付くことが出来ず、研ぎ澄ませば明日の事が分かるのだと感じます。感性をいかに今日よりも前に持っていくのかという事が大事なのだと感じます。真心で生きることを何よりも大事にしていきたいと思います。
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会社にある花を見ていてもそうですが、花を見てきれいかきれいでないかを判断するというのが普通になり、最終的には人と人との価値観さえそこで違うというだけの話ががあまりにも多いように感じます。しかし本来であればそこに花があるから心地よく感じ、そこに花があるからゆったりとした時間を過ごせるなど、存在を丸ごと受け止めた中で、心で感じる事が正しいように思います。少なくても昔の花を生けるという行為はそうだったのではないかと思います。心で感じれる実践を増やす事もそうですが、心で感じた事を素直に表現できる環境を私達はしっかりと作っていく必要があるのだと思います。