植物を観察していると不思議なことに気づきます。
植物には感情がないといえば私から観ればそうではありません。
長い日照りの後の雨には喜び、長い曇りの後の陽射しにも喜びます。
また周囲の蝶や蜂に花を咲かせているときも楽しそうに思います。
これは植物に限りません、関係性を持つとき、そものものは相手との心と響き合うのです。
いのちというものがあるこの世界の存在はすべて響き合う心の音を持っているからです。
他にも植物を観察していると色々と共通するものを感じることがあります。
例えば、新芽の時は大地から大きく養分を吸って 伸びているように思います。
そして枯れてしまえば養分は吸っていないように思えますがそうではないのです。
枯れるとき、植物は子孫を残すためにもっと多くの養分を種に蓄えていくために枯れるのです。
その時の方がより多くの養分を凝縮させて一点に集中しているのです。
広く生きていくことから、深く生きていくことへと生の転換があるのです。
全てのいのちは、その一生の四季に応じて生を転換していくものなのです。
非科学的かもしれませんが、自然を観ていると不思議なことばかりに気づくのです。
教科書には書いていないことを知ることは、自らよく観て深く学ぶことのように思います。
大切なことを自分の頭で考えず、他人の答えに依存していたら真実は観えません。
同じものを何度も観て深めていくうちに、気づきという奇跡に出会います。
決してそれに飽きてはいけないのは、それが考えるということだからです。
考える事をやめるのは、学ぶのをやめるときだと思います。
学び直しは、日常ですが常に深さからの真の深さとは何かを実践しようと思います。
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自分の部屋に観葉植物を置き、植物のサインから自分自身に心の余裕を気づかされています。気付きや変化へのきっかけをもらい、気持ちを切り替えなければなりませんが、それ以上になぜそうなったのか、原因を考えなければ対処療法的に取り繕っていることであるとも感じています。考えを考えで持ち越さず、実践という形に落とし込むことを大切にしたいと思います。
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自分の外側はいつもと同じように存在していますが、自分自身は、幼少期から、少年期、青年期、などを経て内面は常に別人になって変化し続けていることを実感します。自分自身が変化し続けているのだから同じことに対しても考えは変化し続けるのだと感じます。しかし、自分が実践をしようとしないと、頭だけで考えられてしまうので、昔のままの考えで留めてしまうのだと感じます。
大事なのは、何事も自分が実践する気で考える事なのだと感じます。
お客様との対話、クルーとの対話、一つ一つを自分が実践するという気持ちで接していきたいと思います。
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子どもの頃に父親と田んぼに行った際に、父は当たり前に稲に話しかけていました。今思えば稲の気持ちになり話をしていたのだと思います。いかに相手に同化するのかという事がとても大事だと感じます。その先にしか真実はないのだと思います。又相手の内側を見るためにも今までの刷り込みに気づかなければと思います。