昨日、GTサミットの中で藤森代表から「私たちは子どもの姿を先生にする」という話があった。
私も自然から学ぶとき、同じように子どもから学ぶ事の尊さを実感しそこに真実があるようにいつも思えるのです。
子どもが育つということ、生まれるということ、育てるということ、この「育」つというのはとても深い真理が潜んでいます。育という字の語源は、子どもが逆さまに母親から出てくるという文字から形成されています。
私にはこの逆さまということに大切な意味があるように感じるのです。
子どもの視点から物事をみたら、この世はどのように映っているのか。
子ども側から、育てるや育つ、生まれるとみたらどうしていることが自然なことなのか。
子どもと接する自分を省みるというのは、子どもの方が正しい存在して自分が果たしてどうなのかに気づくことのように私は思えるのです。
子どもに求めるよりも、自分自身の心の眼差しがどうなっているのかを省みるときはじめて子どもが先生となるのです。 しかし今の先生は、そうではなく先生の方が子ども達に求めてばかりで子どもたちからの本当の求めには応えようとはしていないように思います。
子どもの発達を信じて見守るというのは、本来の先生とは誰なのか、もともと先生とは何かというところに立脚することのように思います。
子どもを先生にして、自分自身を変えることに素直であることではじめて子どもの先生になるように思います。当たり前のことに気づける感性を、今の世の中の世間知を打ち破る強い信念を醸成して、子どもの周りに自然を呼び戻していきたいと思います。
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素直さの象徴の子どもたちのように学び、子どもの姿を先生にすると思う気持ちを持ち続けることが尊いのだと思います。尊いことが疎まれ、妬まれてと勝手な自己判断で決めるのではなく、もともと何のための先生なのかに立脚し考えていきたいと思います。先に生きることは経験の豊富さだけではなく、省みる豊富さを言うようにも思います。毎日を生き切るためにも、1日に何度振り返られるか自分自身を見つめる眼差しを考えたいと思います。
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自然農を体験してみて感じたのが、作物は人間が育てるものではなく、作物が育つものであるという事でした。これは、子どもについても同じではないかと感じます。子どもは大人が育てるものなのか、それとも子どもは育つものなのか。本来、自然界では人参もリンゴも米も何もしなくてもそこに存在し、育っていたことを考えると、子どもという存在も、そうなのだと信じられると共に、子どもにも自然に育つはずだった環境を大人が奪ってしまっていることを痛感します。自然と子どもをお手本に、自分自身を振り返って行きたいと思います。
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先日保育園にて子どもたちと食事をしました。こちらが食事を出来ないくらい子どもたちは様々な質問をしてきました。子どもからすればある意味で気になり頭の中には疑問ばかりが浮かんでいたのだと思います。しかし大人になれば今までの自分の経験できっとこうだろうと決めつけてしまいそこまでの質問はしません。結果的に真実にはたどり着けない環境を自らで作っているように思います。子どもたちを見ながら自分自身を省みる事、大事にしていきたいと思います。