イキイキしているかどうかの判断基準に、そのものらしいかというものがある。
野生に生きている生きものは、自然界で自分らしく生きているから生命力に漲っているように観えます。海や、川などでも天然で生きている魚も養殖のものと違ってその魚らしさが漲っています。動物園の動物と、実際の野生の山に棲むものも同じではなく自然界に棲むものはやはり漲っています。
野生で生きるということは、そのままでいるということです。つまりはいのちや生きる力はそのものらしくいるということに本質があると思えるのです。
人が元気をなくすのも、いつまでも何かに縛られ囚われるのも、すべてそのものらしさという徳のようなものが顕われてこないからのように思うのです。
そのものらしくというものを忘れている人が多いように思います。そのものらしくとは、信じること、頼ること、つまりは共生しているということであろうとも私には思えるのです。
今の社会やこの時代の環境がそのものらしさを認められないような世界であれば、そこに棲むものたちは元気を失っていくものです。自然ではなく、人工的につくられたものの中では主体は自分そのものではなくシステムのようなものが優先されていくからでもあります。
人工的なものは基本的には、自分の思い通りにしようと思うばかり、天や周囲のすべてを信頼することよりも現実的なところに焦点をあてられているものです。
そうしているうちに、頼り合っている姿よりも、頼らないでもいいものを追及する世の中になっていくのです。特に通貨などができてから、経済効率を優先するようになってからますますそれは顕著になってきているようにも思うのです。
私たちは果たして今のような価値観が幸せであるのかということに向き合う時代に生きているともいえます。
自然はいつも信じる事で頼り合うこと、頼り合うことで信じる事と共生の理念に生きています。
まだまだ自然の実践現場にて深めていこうと思います。
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自らの明かりを拠り所にする考えは、体験の積み重ねがもとになると思います。人を頼った生き方から自ら立つには、転換が求められると思います。環境の変化に順応することも、自然でいることの要諦かもしれません。自然でいることは、自然でい続けることとは異なります。変化がつきもの自然界で、いかに順応し自らを燈せるかだと思います。働き方の転換期の今、順応の伴う体験を積んでいきたいと思います。
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自然に対する自分自身の姿勢と、妻や親に対する自分自身の姿勢に、よく見てみると随分と違いがある事に気が付きました。
ここに、自分自身の歪みが出てくるように思います。よく見つめて見たいと思います。
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人工的な物の中で生活をしているとふと大切なものを見失うのだという事を感じます。昔は周りを思い合いながら生活をし、その中で分け合いながら生きていたのだと思います。しかし今は周りよりも自分、自分の為であれば周りの犠牲はあって当然ともいえる様な世の中になってしまっているのではと思います。自分の思い通りにしようという勘違いに気づき、もっと自然にそった生き方や関わり方が何なのかをしっかりと考えなければと思います。