コミュニケーションの語源をたどると、ラテン語のコミュニカーレ(communicare 共有する)やコムニス(communis 共有の)などが出てきます。
もともと対話などとも訳されますが、本質的には互いに共有することをいうのです。
そしてこの共有とは何を共有するかは、信頼であろうと私は思います。
人は信頼関係を維持するために情報を共有するとも言えます。また逆に情報共有がなければ信頼は積み上がっていくことはありません。ここでの情報とは、表面上の情報だけではなく同時に発生する自分の感情などについても共有していくことではじめて信頼が生まれていくのです。
現代の社会は、自分の感情を交えると叱られるとか、感情を仕事に挟むななどと指導されたため一般的には感情は口にも態度にも出してはいけないといわれる傾向があります。またそのためか意図的に自分から感情を抑制して隠して出さないでいる人もいます。
これもよく勘違いされるのは、ネガティブなことを言わないというのはものの観方を変えるために言われている言葉であり、感情を出してはいけないと言っているわけではありません。もともと現実がどうにもならないのだから弱音や愚痴、文句や批判をしたりしてもどうにもならず、それを、如何に善転していいことにするかを考えなさいといつもアドバイスされているのです。
またその際に感情を抑え込む人がいますが、感情を抑え込むのではなく感情を転じてコントロールする方法を身につけるようにして自分を活かしなさいということを諭されているのです。
一昔前は、日中に仕事で感情を挟まなくても夜になれば飲みにでも行きそこで感情を語り合うことで融和しともに信頼関係を築いていたものです。しかし今は、そういう信頼がなくても結果さえだせばそれでいいと勘違いし信頼関係を築くことを優先しないようなつながり方が楽だと勘違いしてしまっている風潮もあります。
人間は互いに信頼を築くことではじめて協力し合うことができます。
そしてそこに至るには確かな共感というものが必用で、そのためにも情報を互いに共有する必要があるのだと思えるのです。この時の情報は、本来は人間がオープンにいるときの素直な感性や感情をあるがままに共有しようとするものを言うのだと思います。
人は居心地が善いところでオープンになれれば自分の長所や強みを存分に発揮し他の弱みに貢献し自由に助け合うことができます。如何に自らが相手を信頼するかは、自分から頼り信じることができる関係を日々にどう構築していくかによるのです。
人間関係は互いに無理をするところから破たんしていくようにも思います。
何を出しても大丈夫と思えるには互いを推測し合ったり疑心暗鬼になるような関係にならないように本来アウトプットしていかなければならない情報を自分だけで持たないようなことから配慮することのように思います。
共有するということや、共通理解するということは人類生存の鍵です。子ども達にもその大人たちの背中を見せてあげて、確かな生き方を示していきたいと思います。
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相談や報告が何故必要なのかという事に繋がるのだという事を感じました。何の為の相談や報告なのか、起きている事の共有も大事かとは思いますが、実際には互いの信頼関係がそこで成り立っているのだと思います。しかし実際にはいつの間にか業務的にただこなしている自分もいる事に改めて気づかされました。人と人との関わりの中で改めて大切な事だという事を感じました。
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素直さと生き方と働き方が一致している状態が大切だと感じます。働き方が生き方を形作り、生き方が働き方を形作って行くのだと、自分自身の人生を振り返ると感じます。自分らしさを追求し、楽しみながら形成して行きたいと思います。
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インプットの量に対してアウトプットが適切に行われているかを考えると、対比が偏っていると感じています。アウトプットした分が身に付いた情報量だと考えれば、交わす情報量はそれに準じるように思います。コミュニケーションの適不適ではなく、情報の取捨選択の仕方が分からずに言葉の意味、共有する情報を誤り続ければ次第に信頼関係にも影響に関係してくると思います。本来の共有の意味から考え発信していきたいと思います。