先日、ベルギーのアントワープへ訪問してきた。
ノートルダム大聖堂などを見学した際に、170年かけて制作された建物を肌で実感することができる。
人は、幾代もかけて創作されてきているものには畏敬の念を覚える。
それが日本の寺院にしてもそうだし、神社にしても同じく言える。
物事を判断するには、短い時間でできるものとそうでないものがある。
何でも切り分けて、整理していても整理できないものもある。人の心は特に、パッとの思い付きだけですべてを判断できるほど安易なものではない。
だからこそ、慎重に共感し、受容し、相手のことを御互いに歩み寄り深く認め合い分かり合おうとするコミュニケーションが必要になる。
もし、表面上の言葉だけで判断をすべてしていたら色々な先入観や決め付けなども発生する。それが御互いの歩み寄りも邪魔をし、どちらかだけを歩ませようとなると御互いの最適な距離感がつかめなかったりもする。
人は、あまり自分ばかりに責任を背負いこみすぎると相手が観えなくなることもある。そしていつも最後は一人だと思ってしまっていては、本当に大きなことはできるはずもない。人は一人では生きてはいけない。だからこそ、最後は人に委ねるという「信頼する」ということが大事になる。
そして事物には大局観というか、事物と人間の本質をキチンと捉えていくことでそこを軸に自分の布置を見定めてあわせていく。
そして、本質を観ると最終的にすべての出来事とは「ただそれが在った」ということになる。
それが自然だからだ。
そう考えると、あるべきよう、あるがままであるというのは、そのものごとを心を使って無心に受容していけば自然にそれに近付いてくるということになる。
時間をかけてゆっくりと醸成する時間が在るのもいい。より大事なことは「続けられる」ということ。白黒や結果だけではない、確かにそこにある生の人、つまりは人生というものからはじめていくことは根本に必要となる。
様々な問いがあることに感謝し、一期一会の出逢いをすべての今に捧げるような豊かで満たされた時間を大切に過ごしていきたい。
人を信じるということ、人が言うことをそのままに受け容れているということ。そうやって歩み寄ることを恐れずに迷わずに、全身全霊での関わりを大切にしていこうと思う。
感謝
コメント
相手を理解しようとした時に、私の中で邪魔をするのが、「決め付け」「信じきれていない心」「受け入れる余裕のなさ」です。
理解したつもりでいても、それは自分の都合のよい理解の仕方になってしまっていて、「自分が今のままで理解できるように」しているだけなのだと思います。
本当に相手を理解すということ、また相手に理解してもらうというためには、やはりその大局観と、あるがままに受け入れる心構えが大切になってくるのだと気づかされました。今の自分の課題と直接リンクしているところなので、早速明日から実践に移したいと思います。
コメント
自分自身、日々の仕事を通して多くの方と関わると同時に多くの思いがあることを自分はどれほど
理解し汲み取れているのかと思います。
生きるということは共に共に生きる、共生の念を忘れてはいけないと思うのですが、
今の仕事、仕事観は共生の中に存在しているのか自分だけの仕事になっていないか、
志がいつしか自分への執着になっていないか考えさせられます。
仕事とは常に公であること、社会の一端を担っていることを忘れず、社会貢献の意義を
広げていきたいと思います。
コメント
子どもの頃に自分が困って泣いている時に「大丈夫」と手を差し伸べてくれたことを
思いだします。そしてそれは今も仲間といることで実感する困った時には手を差し
伸べるということ。受けたからこそ、頂いたからこそ、自分からも差し出すことを
行っていきたいと思います。そして、自分が困った時にも周りにいる人たちのことを
信じて、自分の殻に閉じこもるのではなく差し出していきたいと思います。