昨日、今年の作物が無事に収穫できたことに感謝し見守ってくださっている方々、神社、お地蔵様に奉納を行いました。
最初は不可能と思えることも真心を尽くしているといつも天の恩恵が得られます。
そして今回も大事なことに気づくことができました。
もともとの作物は、種から育ち実をつけまた種になります。
そのいのちのめぐりや出会いを通して生きものたちは歩んでいきます。
お米も大豆も、育っているのを観察していると様々な自然の恩力の御蔭で育ちます。
そしてそれを見守る私も、そのものの持ついのちの恩力、御蔭を感じています。
これは環境そのものを感じているのです。
自分が育てたとなったり、自分の都合でやったとなるとそれは御蔭ではありません。
感謝というものは自分がやったのではない何かを感じる時です。
そしてそれは周りのハタラキによって自分が収穫できたと気づくということです。
全ての作物は、そのものの作物が育つのです。
それを私たちは少しだけ手伝うことができても、それを自分が育てたのではないのです。
自分が育てたという発想は、どこか自分の力でやったような錯覚があります。
しかし実際に自然農をしてみると、育てたのは自分ではなく育てられたのが自分でありました。さらには、そのもののいのちが育ったのであって私は何もしてはいないのです。
だからこその環境が大切であろうと思うのです。
環境をコーディネートするというのは、そもそもの発想が転換されているのです。
つまりは、そもそもいのちがあるのは「御蔭である」という意味です。
だからこそ、その環境に対していつも感謝するのだと思います。
昔より奉納するのも、見守りに気づいていたからであって感謝のためではないのです。
忘れないためにではなく、御蔭をいつも感じるかんながらの民であったからです。
心は、万物に活かされていることに気づき、その徳性に出逢うときいのちを感じます。
震災からはじまり、子ども達のためにはじめた実践の有難い学びを皆様へ奉納いたします。
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自然農をして感じるのは、育てられているのは自分だと私自身も感じています。生きる力はそれぞれが秘めており、環境を構成するのが役割であろうと感じています。育てられていると感じるこの感覚は、いかにこれまで自分自身が傲慢であったかということの表れだと感じています。自然の恵みは、実りだけではないそのことに気づかせていただいています。
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物事を振り返る時になぜ今これをしているのだろうと、
ご縁を遡って行く事が大切だと感じました。
遡れば今が天と通づると感じます。
ひとつひとつ、そうやってお陰様を見つけて行きたいと思います。
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子どもたちに対してもそうですが、いつの間にかこちら側の思いが強くなり、気づけば育てていると勘違いしてしまう事が多くあるのだと思います。昨日の自然農の話もそうでしたが、本来のそのものの力や育ちという物を何も理解せずに関わるのはある意味で危険な事であるという事も感じました。やはりもともとある力とは何かという事を深めて行きたいと思います。