聴守る

先日、コンサルティングをするある園でじっくりとたくさんの人の話を傾聴した。

話を聴いているとよく思うけれど、こちら側が行う質問の価値の高さにより、相手から引き出し洞察するものはもちろん変わってくる。何を見通すか見透かすかということなると、そこに確かな傾聴力がなければそれをすることもできない。

そしてその面談の中でいつも質問されることが、一緒に働く仲間とチームで何かをするときに自分はどうすればいいかというのがある。

たとえば、見守るでもそうだけど当然、見ることと眺めるのとは違う。

お互いが同じ量、主体性を発揮し、能動的に関わっているからこそ、見守られ、自立し、共生しあうことができる。そうでなければただ眺めただけということなるので、馴れ合いにはなるだけで日和見的にこなすことしかできなくなる。

子ども同士での関係でもそうだけれど、お互いが同じくらい主体的であるからこそ共感しあうことができ、そこに最適な距離感もうまれ、信頼しあいながら互いの命を活かしあって生長していくのだと私は思う。

「聴く」というのもまた、同じように見守ることのように「聴守る」ようにしなければ共に自立し生きるということに繋がっていくことはないと思う。

よくチームや組織で働くことに於いて、この「みる」と「きく」が出来ない人ほど孤立しているをよく見かける。

その特徴はすぐわかる、それは質問をしないということ。

質問をするためには、質問するまでの相手と会わない時間どれだけ質の高い自問自答や問題意識の醸成、探索などを行ったにもよる。もちろん喋るのが得意不得意もあるけれど、それと質の高い問いを持っているとは同じではない。

質の高い問い、それはつまりは自分がどれだけ主体的に動くかを周囲に働きかけようとする自発的な行為をすることであるし、それにより真に学ぶことができ、意味のある成果を得ることができるということを自覚しているからその問いの質が高くなる。

忙しくなったり、考えることをメンドクさくなり怠けると、人はすぐ「やること」に逃げようとする。そしてそのやることばかりに囚われてしまい、よく思索することや思考することやめてしまう。

ひょっとすると聴けないのは幼い時に孤立していたトラウマもあるのかもしれないし、人を信じられないから聴くよりもやる方が心が楽なのでそうしているのかもしれない。

しかしそうやって質問しなくなるとすぐに周囲への思いやりがなくなってくる。
そしてトラブルを起こし、無理に話し合い矯正するという悪循環になる。

逆に好循環になるには自分以外の人への思いやりと協働に基づき、自分を活かすために脳みそを使うのではなく、文字通り心を使う「心配り」をすることを大事にしないとそうならない。

なぜならこの心を亡くすと書いて、「忙」となるのだから文字通り忙しい人は、作業がひらすら多いのではなく、心を使うことをひたすらやめた人だということだと私は思うからだ。

周囲をよく観て自立すれば最終的には独立になるけれど、そうでなく一人寂しく孤立したら時代の流れという理があるのだから人間界で定義されている「うまくいく」ことは決してない。

だからこそ、そうやって孤立しないためにも、心を使い続けられるようにするために、よく周りを見てよく聴き、よく守り、いつも周囲に対して信じる心を開いていることがみんなとともに居られるということになると思う。

そして質問は当然として、その質問の仕方が分からないのはどうだろうか。

この質問の仕方を考察すると、質問するのはどこまで自分が聴いて理解することかを能動的に行っているかが問われている。この質問が現在できていないというのは、シンプルにすると「自分が聴いていないからであり、単に受身に聞き流しているだけになってしまう」からだということになる。人はテレビではないし、ラジオでもない、ついていけないからと考えるのをやめたらそこで自分自身は主体性をやめてしまう。

ゲームでもそうだけれど、周りがみえなくなるから受身になる。

やはりここでも受身にならないためには、如何に一人にならないように周りを受け容れるかによるのだ。

だからこそ、組織やチーム、もしくは人生に於いていつも周囲に心を配り、常に自分から傾聴していくことが大切なのだと私は思う。決して自分だけを優先して自分勝手にやってはいけないし、そうやって心を亡くし孤立して自分を傷つけてはいけないと思う。

それが自分への思いやりにもなっていると私は思う。
疲れやシンドサや精神の病などもそこから繰るのではないかとも私は思う。

まずコミュニケーションのスキルを身につけるとして、昔やっていた心の対話の方法を見失ってしまっている人は質問することでどこまで聴いて理解しようとするのかを相手に伝えることで相手はそれによって話をしてくれるものを知るということを練習することが第一。

自分が質問もしないのに、相手の話をただ頭で分かろうとしているだけではあまり自分が動こうとする時に役に立たなくなるものだからその習慣を取り除くことからはじめるといいと思う。

会社や仕事でもそうだけれど、自分が主体的に自立して動けるというのは「どれだけ事前に動く前に質問して確認して理解しあえたか」によるものだと私は思う。

人と人が何かをしあうとき、それは確実にお互いの能動的な関わりがいる。

つまり、「阿吽」のチームワークは、「全員が主体性を発揮している」からこそそれが成り立つという。

もし、組織やチームの中に一人でも受身の人がいれば阿吽にはならないからできない、思いやりが欠けたチームでは人はまとまらないということだ。

だからこそ、大切なのは脳みそのできがいいや、才能があればいいではなく、とにかく周囲へ対しよく質問すること、尋ねること、どこまで自分が理解しているかを伝えることなど、まずは自分主体で周りを信じてオープンに発信していくことこそコミュニケーションの基礎ともいうのだと私は思う。

そしてそこ辿り着くためにもそのスキルとは別に大前提として、相手の意思を尊重したり、認めたり、受容するという、お互いを尊敬しあい信頼しあう人間関係があることを学び、その真心の眼差しや耳差しなど、相手に先に送る自らの心をとかく修養していくことが何よりも大切なのだと思う。

常に、人は一人では何も出来ないようにできているのだから、まずはよく質問し自分が常に受身にならないように相手より先んじて行動し、実践することを大切にしていけるような仲間を人間を信じあえる環境を用意していきたい。

一円対話を通してコミュニケーションの基礎を理解してもらい、それぞれを主体的に関われるような仕組みをこの国の子ども達が棲まう保育現場により広げていきたい。

子どもたちにも自分から発信しあえるような「豊かな場」を用意し、それぞれが自らで自分にしかできないことを見出せる基礎を、「みること」「きくこと」などによって得られるような環境を用意していきたい。

  1. コメント

    自分の人生は自分自身でどう動機つけしていくかで見えるものや聴くことも受け取り方も変わり、
    人生の価値は全く違ってくると思います。
    前向きになったり弱気になったり私欲が執着を生んだり、志を抱いたりと心のありようは色々とありますが学問に励んだり、日々の社業の中での実践したり、自分を律したりすることは心を鍛錬しているのだと思います。
    だからこそ、日々の三省で自分の心と正対し、心のありようを知り、修正していく。
    どんな仕事でも自分の心を使った仕事にしていけれるよう取り組んでいきます。

  2. コメント

    個性を曝け出し合い、認め合うことなしに、集団が作られると、主体性を発揮するということが非常に難しいように感じます。元々の日本の教育自体が集団を如何に管理していくのかという考えが根強いことも関係があるのかもしれませんが、そのような関係性において、共同的な活動の価値というものを、日々の社内の実践を通して感じています。自然界でも多様性が当たり前のようにあるがままに存在しているように、私たちの社会も、個々の個性が当たり前のようにあるがままで居て良いのだとなれるように、実践を積み重ねて信じる道を進みたいと思います。

  3. コメント

    周りの声を聞かない、聴く事が出来ないときには自分を見失ってしまっていること
    であり、自分が一体何のためにその時間を使っているということすら分からなく
    なってしまっていることだということを振返ると自分自身でこれまでそうしてきて
    しまった事を思い出します。
    本当はどうしたかったのか、忙しくすることで自分から開くことから逃げ出して
    しまっていたのかもしれません。どうしたら良いのかと迷っていたのかもしれま
    せん。もしかして没頭することで自分を認めてもらいたかったのかもしれません。
    しかし、そこに意味が無かった。自分の理想とする姿からはどんどんかけ離れ、
    自分を見失い、自身で忙殺していくことにもつながるのでしょう。
    園でも会社でも仕事に没頭してしまう人は見かけます。その人が本当の自分の姿を
    素直に表現できる様になるためにもそして、本当の自分のためにも自分から心を
    開いて手を差し伸べていくことが出来るように日ごろからの努力を積み重ねて
    臨んでいきたいと思います。

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