ドイツ研修4日目を迎えました。
やはりここ数日間の寝不足のせいか、集中力の持続が難しくなっています。
眠くなるというのは、体力、気力、精神力などがありそのバランスが崩れてしまうことです、だから寝て回復調整します。当然、こちらで日本とは違う時間帯で体は動いているのだからどんなに工夫していても体力も落ちてしまいます。またいくら気力があったとしても情報量が多いとどうしても鈍りますし、時間が限られているのでやれることも少なくなると精神もやや疲れます。
これは別にそれが良いとか悪いとかではなく、もともとそういうものだと受け容れてこれで善いのだと転じて自然のままに感じることだと思います。自分の状態が分かっていることではじめて周囲の感触もより繊細につかめていくことができるからです。
これも旅の醍醐味ですから、歩みの感触を見守りつつ、皆とそれを楽しみながら日々の学び方も素直に工夫していこうと思います。
さて、昨日も園を視察していく中で共通したものに発見発掘がありました。
当たり前かもしれませんが、もともと子どもたちが安心しているところや子どもたちが見守られていると感じるのはそこに子どもがそのままでもいいと感じる環境が用意されているからです。もちろん、そこには共通して子どもがやりたいことが保障されたり、それを見守る側が自分も子どもと同じように楽しんでいるという状態が存在します。
もちろん保育の遊具や家具、その他の教材などはどこでも似たり寄ったりのものを使います。しかしよくよく観察すると、そこには大人が子どもに与えたと思われるものと、大人子どもがなく楽しんだ形跡の物が残っているのです。そこは余韻があるという感覚に近いものがありますが、楽しい場にはそこに一つのいのちが躍った温もりが残ります。
また装飾などはその時々に自らが響いた記憶に包まれるだけにとどまらず四季のめぐりにあわせていることも発見しました。
子どもも自然のいのちの存在と同じように自然を感じて自分のいのちのめぐりに触れています。自然を持ち帰りたくなるのは、そういうものを身体が感じて四季のめぐりの準備をするからかもしれません。つまりもともと人間も他のいのちと同様にが四季にそっているということです。
これは植物が自分から冬に備えて葉を落とすことに似ていて、全ての生きものは何もしなければ自分から元々あった力で取り組みはじめるのです。
今回持ち帰るのものの中に、「めぐりの装飾」がありますが自然のリズムやサイクル、そしていのちの躍動そのものに触れる機会を環境と共通させていこうと思います。
そしてドイツでもそうですが、まず自らが大人の目線、刷り込みのメガネを取り払って子どもという真の姿のままに物事を捉えることが保育の共通であるように感じました。
もちろんカタチになっているものを観て、どのような行動や気づきがあったのかは現場のことが分からない部分は埋められませんが、それでもよく観察することで内面より自明していくこともできます。
全体的に寝不足なのですが、帰って心に戻る時間も取れるし静かに思索にふける時間もありますからこれもドイツ研修の味わい深さかもしれません。
本日はミュンヘンでの最終視察日で明日からヴェルツブルグに向かいます。
夜の情報交換会もまとめの日、せっかく折り返しして冴えたのだからドイツの場や間、和の空気など自ずから触れ合い沁み込んでいこうと思います。
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議論を進めていく中で核心に触れたような感覚を共有した時、人はすぐに動き出すのだと感じました。「わかる」にも3段階あり、「困ったときに助けてくれる人がわかる」、「実際にやっている人がわかる」、「自分が次に何をすればいいかがわかる」と感じえたものを、カタチにしようと動き出すのだと思います。感覚を大事にし取り組みを進めていきたいと思います。
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ホワイトクローバーの種をまいてから、種の気持ちになって環境を用意するということをしてみた後は、何もしないで観察を続けていますが、自然の気候の変化の中で種たちがもうすでに変化を始めているのだろうと思います。どのようになっているのかは分かりませんが、これから芽が出てくるのを楽しみに待ちたいと思います。
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今回の視察で特に感じたのは、やはり先生の姿勢という物に目が向きます。物的環境を作るのも先生であり、直接子どもと関わるのも先生です。ドイツで見る先生方に不安の顔が無いというのがとても印象的でした。もちろん楽しんでいるのかもしれません、同時に子どもと関わるうえで絶対的に必要なものが自分の中に確立されているようにも感じますし、園によってはそれが保育や実践を通して共有されているのではと感じました。やはり何の為にという事を考え動く事の大切さを感じます。