自分を知ると言うことはとても難しい、それは自分が器であるがゆえに入っているものが様々に変化していく中で自分がどのようになっているのかを確かめることが難しいからだ。
鏡がある。
鏡は、外側の自らの姿を映し出すけれども内面までは普段は気づかない。しかしもう少しよく観察してみると、器がどうなっているのかを感情という入れ物を外すと客観的に理解することができる。
夜に水面に映る月も空も、そこにあるようでもそこには存在しない。
そこにあるのはただ月と空と水がそれぞれに存在するだけということ。
そう考えると自分というものを見つめると本当の自分を知るということが、自分を探していくことに於いては何よりも大事なことだと思う。
しかし自分の心の動きを観ようとしていくことが自分を見出していくことだとしても、その心そのものが動いているのにその心の流れを感じるというのはとても難しいことだと思う。
平常心というか、そういう心が穏やかで定まらなければなかなかできるはずもなく、どうしてもまだ修行が足りず気づくことができない日々がある。
器としての自分、器の中にある自分、そういうものを含めたものが本当の自分だと思えるにはまだまだ自分から心を開く実践と修練が必要になるように思う。
人は、何か理想を持てば必ず完璧を追う。
そこに落とし穴がある。
私も、子どものためにもどうしても何とかしなければと危機感と問題意識が膨らみすぎると自分を叱咤鼓舞しているうちに次第に臆病になり完璧主義のような職人的人格が形成されどうしても他人に寛容になれなくなってしまう。
現在、コンサルティングを通して様々な経営者や同志にお会いする中でやはり子どものためにと理想を追っている方は同じようになっている人が多い。
しかし崇高な理念や理想とは、自らが掲げた真理や真心への道でもあり、志を持てば必ずその理想は自らを道にいざなっていくものになる。
それゆえに偉大なストレスを一人孤独に抱え込み、マゾのように自分に厳しくなり、今にも折れて押しつぶされそうな人たちもまたたくさんいる。擦り切れてしまってはせっかくのもっている能力が活かされず、疲弊してしまう、それが何よりももったいないと私は思う。
素晴らしい人たちを埋もれさせることは国家最大の損失と言わずに何というのかと私は思う。本来、吉田松陰先生が仰った「草莽崛起」はそういう人たちを自由に表現できる世づくりでもある。
しかし悲しいことに今はその草莽崛起も力を弱められ、この日本の社会はそういう自立した人たちに対してみんなでよってたかって縋り助けてもらおうと依存する性質をもった人たちが教育により出来上がり、その集団が安易に力関係で形成されやすい世の中になっている。
私にとってはそういう草莽の志士であり真面目で効果的な人物たちが次第に諦めてつぶれていくことがもっともこの国の未来を貧しくさせていくのではないかと思い何よりもまた義憤し憤慨している。
そういう真剣な人たちに対して、如何に周囲がもっと心を開き協力するか、そういう人たちのストレスにならないように優しい暖かい環境を用意していくかも、子どもたちの将来のあるがままに繋がっていくと信じている。
そしてリーダーとして自らを鑑がみるときに、自分に厳しく、人にやさしくいたいと思っていてもどうしても心のゆとりや余裕が足りず、また信念に不動の柔軟性がまだ足りずどうしても私自身はそれがまだ実践できないでいる。
本当に追い込んでしまい申し訳ないと思うことがたくさんある。
自分を愛するということは、人を愛するということ、人を愛するためにも自分をどう愛するかは、心の動きや流れを自覚し、本当の自分を知ることであるのだとも私は思う。
そう思うと、愛を循環させることが素直にできない自分にどうしてもジレンマを感じ、それがなかなか思うようにいかないと反省する毎日ですが前向きでありたいとも思っています。
無理をしないで本気であるというのもまた中庸。
ゆっくりしているけれど効果絶大というのもまたまた中庸。
師匠の背中から実践からまた深く学び、私自身の今年のテーマである「適度」がきちんと理解し受容できるような強く優しい人になっていきたいと思う。
かんながらの道の一つにこの愛の循環を取り入れ、本当の自分に向き合っていきたい。
感謝
コメント
今の私自身を思うと、思いや理想が宙ぶらりんになっており、自分の器に納まっていないのだと感じます。器に納めることが出来ていないので、自分を治めることが出来ず、いっぱいいっぱいになってしまいます。まずは、自分の器を知ること、そして器を治めて中身に想いを納めること、そして先は長いのだとは思いますが、自分を治めることが出来るように一つ一つ、実践を重ねていきたいと思います。
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人はなぜ生きるのか、生きることを説明しきることはとても難しいと思います。
自分自身、今生きている、当たり前のことを表現することの難しさを感じますが、だからこそ、論語などの人間の普遍的な真理を書かれた古典の時代の風雪を乗り越えて現代に存在している素晴らしさに感銘します。
愛ということについても同じく率直にまだまだ自分はわかっていないと思いますが、そんな自分自身では人を愛することも人からの愛を受けることもできないこと振り返り、気付かされます。
どうにか生きているうちに人が生きて死ぬこと、本当の愛の意味を自分の中で生み出していきたいと思います。
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目先で起きていることを見ようとするのではなく、長期的な視点から照らし合わせてみると、
自分の人生にとって必要であるかどうか、必要であると取るならばそこまで踏み込んで深く
関わって下さっていることに感謝しなくてはいけないということが多くあります。言わなければ
別に言う必要もない。ただ距離をとれば、割り切ってしまえばいいだけの話。しかし、そうせず
敢えて大変な道を歩もうとすることにもっと考えなくてはいけないのだと思います。なぜそう
するのか、自分が利用できるからか、利得があるからか、それだけでは、維持し続けることは
出来ないのだと思います。そこには譲れない信念が伝わり、相手を大事にするからこそ、自分も
本気に為り、本気で伝えてくれているという至誠に自分がどうであるのか見直し、何で応える
ことが出来るのかを改めていきたいと思います。