生きた仕事と死んだ仕事がある。
生きた仕事は、過ちが少なく死んだ仕事は過ちがたくさんある。
これは、別に失敗しないということを言っているわけではない。
それに過ちが悪くて、過ちがないことが良いと言っているわけでもない。
真に生きた仕事は失敗がとても大きな成長の糧になり、その次に繋がっていく。
しかし死んだ仕事は本当に失敗する、なぜならそれは次に繋がっていかないからだ。
まず生きた仕事をするために大切なことはその任された仕事に対してどれくらい、事前に周到に深め正確に準備し何度も自らで本当にその期待に応えられるかを上司に確認して進めたかということが大きく関わってくる。
かの松下幸之助さんはこういう。
「上司が一度承認したからそれで事足りると思ってはいけない、それであなたが承認したでしょうとなるのは言っているその人が間違っている。一度判を押してそれで事足りるとするのはそれではとても真に過ちのない生きた仕事はできるはずがないと思うべきである」と。
生きた仕事をするというのはそういう任されたことを正しく理解しているところに生きた仕事というものがあるのだと私も思う。
これは人生で考えてみても良いだろう。
流されて生きる人と、日々、充実して生きている人の差でも同じであるからだ。流されていく人は、ただ流され死んでいき、充実している人は常に確かめながら内省し生きていくようなものだ。
なぜ、仕事もよくよく確かめ内省して細心の配慮で事前に深めて共に進めていく必要があるのか。
それは自分の会社の中や社会での自らの存在の影響力を正しく知っている、つまりは「責任を自覚」するとということになる。
ただ失敗をしないというのはお使いを依頼された作業を正確に行うことを言うのではなく、仕事を任されるのだから自分という存在が何より仕事を通じて相手(会社やお客様)に与える影響力を正しく理解しその評価に対するきちんとした責任が取れるということになる。
もし作業が仕事となるのなら何も自分の影響を自覚しない死んだ仕事となるし、さらに悪いことには自分が責任を果たしたことにならないから当然当事者意識も問題意識も危機感も育たず、自分が練り上がらず、良い意味でのプレッシャーも感じず遣り甲斐や成長のストレスも正しい方向を向くことがない。
責任がないところに真の遣り甲斐など存在しない。
その遣り甲斐は、その影響力と自覚を自分が持っているから得ることができる
人は、仕事や役割を任されるから命を使おうとし成長し自立する。
会社や社会、上司から役割を任されるのは、その影響力や評価に自分が応えると言うことである。
それを自覚して、その自分の責任を果たすというところに会社や社会を発展させ真の共生と自己実現の両立ができる。
別に自分勝手に作業を進めて、自立しているというのは単なる勘違いでそれは自分勝手に好き勝手動いて周囲の評価を下げて周りへ悪影響を及ぼしているだけで、常に無自覚無責任にやりっぱなしの死んだ仕事ばかりに取り付かれた亡者や所謂世間でいうところの悪い意味でのサラリーマンのようになっているということになる。
私たちがコンサルティングで入っている園でもそうだけれど、子どもたちに対して、また周囲の保護者へ自分がどれだけ影響力があるかを正しく理解しているかで取り組みが変わってくる。もちろんそこを掘り下げれば自然に問題意識も危機感も育っていく。自らの保育の在り方や自分の日頃の生き方としての基本としてもそうだけれど、自らが子どもへ与えてしまう影響力を知り、自分の存在が相手にどれだけの価値があるかを正しく自覚すれば自然に内省的になるし本当に生きた良い仕事ができるようになるものだ。
よくだらしないやみっともないことをする保育者もいる。
よくカッコウや言葉遣い、身だしなみがあまりにも酷い人が居るけれどその人たちが本当に子どもへ対する自分の影響力の自覚があるようにはみえない。
子どもたちには尊敬と慈愛が必要で、もちろん外見をあまり言うのはどうかと思うけれど無自覚・無責任は思いやりをもって反省していくと良いと思う。
また、崇高な理念を掲げるところは自分たち一人一人がその理念に対してどれだけ期待され評価されているかをいつも意識することで自然に自律することができるようになる。
自分の評価を下げないのは周囲への深い思いやりであるし、大きな社会の中で自分の個性や自己実現を存分に発揮できるようにすることに繋がっている。
最近、師匠のブログでオリンピックのことなども書かれていたけれどその自分の影響力や期待度や評価の自覚がないこと自身が無自覚無責任ということになる。師匠はそれに対して、あまり周囲の大人が本人が気づいていないのに言いすぎるから本人が気づけず、自分勝手が自己主張と勘違いしてしまうのではないかと本人に自覚させない周囲の大人たちの教育の在り方そのものにも疑問を提言していた。
例えば、自分の影響力が大きい教師や経営者、コンサルタントと言われ人々へビジョンや方向性を示し導くのが役割となる職業がある。当然方向が間違っていたとなると与える損害も大きく社会や親や子どもたちの人生そのものに対してもその影響力も相当なものだ。
もしもそういう人が飲んだくれてどこかの道端で寝ていたり、社会的に悪影響となる不祥事やみっともない体たらくぶりを露呈したりとあるのは、その責任に対する自覚が足りないから起きることだと思う。
私もそうだけれどやっぱり周りは自分が慕って尊敬している人(教師やコンサルタント)が飲んだくれどうしようもなくなるのはみたくないし、方向性を示してくれた人がだらしなく不祥事を起こすのはとても恥ずかしいことだし嫌な気持ちになるものだ。それに責任が重くなると、遅刻一つや約束一つ、その他些細なことまで不祥事となりその影響力は大きくなっていく。
よくそういう人たちは「人間だから仕方がないよね」と言うけれど、これも師から教わったのだがそういうことを自分で言う人に限って人間だからと言いわけしているだけで決して周りはそういうふうには思ってはいない。
ただ恥なことだと思われるだけだ。
人間だからという受容や肯定は、程度もあるし、また日々一生懸命役割を果たしていてもやっぱりどこかまだ思われるほど強くなれないところがある、その「あるがままの自分の弱さ」をさらけ出すからそれを周囲が認めて人間だからねといわれるだけで決して本人が「別に人間だからさいいだろうこれで」というのは、やっぱりどこか自覚のない無責任があるのだと思う。
これは教師と言われる聖職者、リーダーと呼ばれる経営者、またはコンサルタントと言われる伝道者は、何より世間、会社や、相手へ対する自分の存在価値や影響力を正しく受け取り、それにそって自分の使命を自覚することが自らのミッションを真に達成するには必要なのだと思う。
正しく生きた仕事は周囲を幸せにしていくし、誤った死んだ仕事は周囲を不幸にしていく。それだけの仕事だからこそ遣り甲斐も生き甲斐も生まれて幸せになることができるということだと私は思う。
私たちは生きているだけでも活かされ活かしあっているのだからこそ、何よりそのことに感謝し自分を律していくことをただ自分勝手にやるのではなくもっと周囲への思いやりを優先し自らの責任と自らの自覚により正しく認識して実践していくことを大事にしたい。
カグヤは、子ども第一主義のコンサルタント集団。
だからこそ、その責任と自覚が期待を裏切らないことを肝に命じて常に内省し実践していきたい。
コメント
無責任、無自覚でできる仕事は会社や社会に対して依存して成り立ってしまうのだと思います。
今朝の一円対話でも深めましたがカグヤの理念にある「自分にしかできないこと」では、世の中においてカグヤにしかできないこと、社内において自分にしかできないことに全力を尽くすからこそ、共生の概念に近ずけるのだと考えます。
理念経営で社業に務めるには働き手が理念の人になること、理念の価値の重要を知ることで自分自身の存在や責任の大きさ、影響力を知り、価値を守る為に公に合わせて自分を律することが大切ではないでしょうか。多くの人達への影響に配慮し社業に励みたいと思います。
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仕事に責任を背負っているか、どこまで背負っているのか、それによって生きた仕事になるのかが決まるのだということを理解しながらも、まだまだ背負える量を遠慮して居ます。それが自分が負える量なのかどうかを悩んだ時に、負える量以下しか負えていないようにも思えます。そう思うのは自覚が足りないのだということだと解釈していますが、自覚が先か、責任を背負うことが先なのか、理解は出来ておらず、とにかくどちらにしろ今を大切に生き、明日はもう一つ新しい自分になり、またその日を大切に生きることなのではないかという思いを大切にしています。まだまだ何も変わっていませんし、分かってもいませんが、子どもに背中を見せるために、自分自身に誇りを持つ人生を過ごしたいと願っているので、向き合い、背負い、自覚を高めて生きたいと思います。
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事象だけに囚われ場面を乗り越えるだけに着目し、責任を取ろうともしない行動、言動を
していたことを振り返るといたるところでしていたと考えさせられます。しかしこのことは
自分のことの様で自分だけのことではないことをもっと先を見て、ひろく見て自身で捉えて
おかなくてはいけないことだと認識させられます。身の回りで起きていることが実は至る
ところで起きていることのであり、そうした一つひとつのちいさなすれ違いがやがて大きな
問題に繋がることや、自己肯定感の喪失に繋がるのであり、人と人との間をつなぐ者として
繊細な部分に関わっていることを自覚して臨みたいと思います