仕事をしていると色々なことを見通すことが必要になる。
それは教育でもそうだし、保育でもそうだと思う、本当に先のことを受け止めれば何が良くなく何が良いのかのモノサシは変わってくる。
目先のことで良いことは自分を優先してしまうことが多く、遠く先のことで良いことは周囲や他者を優先できることが多い。
例えば自立でもそう、その人のことを思っているといっても色々とある。
ある人は自分では遣り切ろうとはせずに助けを求める。
また、ある人は自分の力で遣り切ろうとして助けを求める。
前者は、自分で遣ろうとしないのだから当然ずっと助けが必要になる。
後者は、自分で遣ろうとしているのだからやり方を教えれば自助努力し遣り切ることができるようになる。
しかし、つい前者の人を助けてしまうのは今の社会の在り方が問題な気もする。今の社会は、自分で遣ろうとしない人まで助ける過保護な社会になっている。みんなで寄ってたかった権力者や力のある人にしがみ付こうとする風潮がある。
そして不思議なことにそういう人を助けないと可哀そうだと同情する、一般に前者の人は傍から見ると困っているし、助けてあげてくださいといわんばかりに周囲に異様な気を遣わせる。
しかしその自分でやる気がない人を助けると、助けた側がその人のやらないことに引き込まれその人ができないことを代わりにずっと全部手伝うことになってしまい、結局は過保護になりその人が自らの力で生きていくための自立する力がなくなり依存の悲しい負のサイクルに手を貸したことになる。
本当にその人のことを思いやり考えるなら、本人が自分から遣ろうとするまで何も手を出さないことが優しさになる。自分で遣る力を持っているのに出さないのは、いつも誰かに面倒と世話をしてもらった甘え癖があるからできないだけでその人の本当の力を出したわけではない。
その人は、本来できる力を持っているけれどそれを出さない生き方をしてきた方が得をしたからできなくなってくる、またよくニートとかあるように両親が気に入ってくれることばかりを気にして生きてきていつも助けられていたらそれが自分がやることだと勘違いもしたりする。
本当の筋道で親が思っているのは、子どもたち自身の徳性を活かした自立である。
それが誰かのための自立では筋道が変わるし、大事なのは社会で役立つ自分のために自分の力だけで自立することであると私は思う
また後者はどうだろうか?
後者は、自分が自分で遣り切ることになっているから見守る側の少しの援助とアドバイスがあれば自分で物事に勇敢に対峙し解決させていく。また遣り方を覚えて実践してくると次第に応用や創意工夫などのビジネススキルなども伸びてきてその人らしい仕事で会社や仲間を助けて自らの力をもって自立ができるようになる。
こうやって自分でやろうとする人を援助するとき、どんなアドバイスや言葉も数倍、数百倍の効果を発揮するし、その人に無償の奉仕や愛を与えればぐんぐんその能力も才能も開花し発揮していく。
その人は、誰かの力に依頼したのではなく、文字通り自分の力のみで物事を解決できたということ。そういう人だけが本当の感謝ができ、周囲への暖かい思いやりや見守りを受け取ることができる。
依存は悲しい負のサイクルを生み、自立は豊かで正のサイクルを生む。
自立は自利利他の心に満ちていて、共生し自然に幸せになっていく。
ただ自立を怖がっている人たちを観るとどうも今まで生きてきた刷り込みなどもある。
例えば、まずはそこに公私の自立というものがある。
つまりは正しく自分のことを「わきまえる」という意味が分かることからが大事なのだと思う。
当然、集団生活や社会がある会社にいるときや皆と同じく公の時間を共有して使っているとき、如何に自分の立場をわきまえているかということでもある。
この「弁える」を辞書で調べると、
(1)物事の区別や善悪の区別をする。
「ことの善悪を—・えなければならない」
(2)人としての道理を承知している。
「礼儀を—・える」
「場所柄を—・える」
とある。
つまり自ら「TPO」【Time(時間)、Place(場所)、Occasion(場合)】を正しく理解し、それを実行する力があることになる、それが自分の社会での影響力を知る所に繋がっている。
当然、これは自分が所属する組織から何か大きな責任と役割を自分が担っていて自分がその一部を自らの意志でやっているのなら周りのことをよく考えていないと自分勝手となる。
それぞれに責任の範囲がある、社長は社会的責任を果たし、社員の生活を保障する、社員は、自分の仕事の権限と範囲の中で責任を果たす。
そうやって、肩書きにより責任も重たさも変わってくる。
そうすると当然、公私ともに「けじめ」が要る。
このけじめとは、甘えずきちんと筋道を通すということ。その筋道とは、自分がどのように公私ともに在るべきかを正しく理解し道徳と規範を示し、実行すると言うことだと私は思う
それをなあなあやいいかげんで自分勝手に判断するというのは、そこに正しい筋道が一本通らないとき公私混同となる。
公私混同しないで甘えないとは、いいかげんやなあなあな「私心」を持ち込み自分勝手な判断をしないということでもある。
このブログで最初に定義した、見通しは、自分の責任、役割、権限、使命の範囲を理解していてそこを正しく果たす自覚からその自立ができるようになる。
つまり、こういう状態になっているということは、単なる「見通しの甘さ」があるのではなく、自らが作りだした「見通した甘え」があるということだ。
自立しないと本当に色々な人たちに迷惑を懸けてしまう。
会社はお客様を助け、会社を助けてはじめて自分が助かる。
真の自立は私心を取り除き、誠に公のために公心を以て歩むことだと思う
まずは自力で他者を助けられる力を持つようになることが自律と自立の第一歩。
私たちは子どもたちの未来に影響を与える仕事をしているコンサルタント企業として社会的責任を担っている。
だからこそこの見通した甘さが未来の子どもたちに悪影響を与えないようにプロとして日々の言動と行動を厳しく自覚自律し、真の自立した大人として自助の精神を第一に脚下の仕事に丹誠こめて取り組んでいきたいと思う。
コメント
今回の見通しということを学び、自分自身を振りかえると、どこまで仕事や業界に精通しているか、自分と向き合い自分自身に精通しているかで世の中や仕事、物事へ向ける洞察や視野が違ってくるように思います。
大きく高くて遠くに見える山を登ろうとしているのか、明確な目標を持つことなく、今目の前に見えている山登っているのでは自分の人生の見通しが違ってくるのは当然で、遠くにある高い山に登ろうとする者は限りある自分の人生の時間をひと時も無駄にできないし、目標に対して必要なことしかしなくなり、カグヤで言えばそれがこだわりであり、目標に向かって自律していくことだと思います。
目標を大きく高く持っていない者は目の前のことや私利私欲に意識を持っていかれ、到達点からぶれて
しまいがちになるのではないでしょうか。
改めて見通し力の偉大さと見通せないことの重大さに気付かされました。
コメント
誰のために、何のために働いているのかという出発点が問われてくるように感じます。世の中に働くのか、自分のために働くのか。自分のことについては、自分で責任を取ることは出来ますが、世の中のためにとなると、実際のところ、責任を取り切ることは出来ない。だからこそ、失敗や堕落は許されない。世の中のためというのは公の仕事を行っているのだという自覚が必要であるということを社長よりご教授いただいていますが、漸くその意味を感じています。公の自覚を持ち、自分自身を磨いて生きたいと思います。
コメント
今回の記事より、自分の都合に合わせた仕事の進め方になってしまっていた部分が多々あった
ことを反省させられます。それはどれだけ公の仕事に出来たかを考えずに、自分の判断で意見で
進めてしまい、私物化してしまい、結果周りの人に迷惑をかけてしまっていたということだと
思うのです。こうなっては責任を取ると言っても自分一人だけで責任を取るという、また自分
勝手な責任の取り方を取ってしまい、何も変わっていない。一つひとつの出来ごとが未来を創り、
子どもに繋がっていることを自覚して一瞬たりとも油断できないのであり、プロとして、組織人
として、人と人を繋ぐコンサルタントとして、社会的責任を果たすことが出来るように日々の
取り組みを振返り、改めていきたいと思います。