先日から「分かってもらおうとしない」ということについて深めています。
大前提としてこれはまず分かってもらえていないと思うから相手も周囲も分からないのですが、私はこの分からないというのは実はそのまま別に分かってもらうものではないからかもしれないと思っているのです。
人は相手と共感するのは、もともと自分の中に備わっているものから探していきます。特に共感力の高い人は、自分の中でそれを感じる引き出しが多くあり、それは子どもの頃から関心や興味をいつも自他へ向け続けてきたからとも言えるように思います。
人は自分のことばかりを考えて生きるようになってくると、関心を持つというよりも自分のことを如何にわかってもらおうかとばかりに躍起になってしまうものです。
しかし子ども達を観ても感じるように子どもはやりたいことがただあるだけで分かってもらおうとはしていません。それをこちらが共感しているからこそ、相手の本当にやりたいことに寄り添い手伝うことができるようにも思うのです。
しかし今は、刷り込みで指示や命令、何かを言わなければ動かないというように共感しているというよりも頭で処理していく方が便利だと勘違いしその共感はとても低下しています。
分かろうとするのでもなく、分かってもらおうとすることもなく、ただ関心を持つこと。この関心というものは、世間で言われる単なる興味などのことではなく心で関わるということを書くのですから心のままでいるということなのです。
分かろうとしないということは、心で接するということ。それは頭で理解しようとすることではなく、自分も同じような心がありその心は同質のものがあると信じる事のように思います。
何かやり遂げたいことがあるのだろうと思うのが本来の関心です。
それは分かってあげようとか分かってもらおうとするのではなく、もっと心を澄ませてお互いのやりたいことを尊重し合う環境の中にこそ真の心は存在するように思います。自分のやりたいことそのものが誰かの御役に立てると信じることができれば分かりあろうとはしなくてもそれで善いではないかとも思うのです。
不識という言葉には、なおまだ説明ではできない分からなくてもいい境地があるように感じます。さらにそれを追及して気づいて、シンプルな中で無我夢中になっていきたいと思います。
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課題と言った時に、その課題がどこを指しているかで見えてくるものを感じます。課題が自他の分け隔てなく繋がっていると、実際の行動へのプロセスを考えます。自他が一致していないと、わかってもらおう、わかるように説明しようと躍起になりますが、関心を抱く相手がどのように行動をしていくかに、こちらが関心を抱くと、自分とは違う思考を持っていることに目を向けなければなりません。わかってもらうことよりも先に理解していくよう自ら働きかけること、思考が違うことを理解し、自らの選択肢が増すような方法を考えることが、チームアプローチの一助になるのだと感じます。
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子どもの頃に多くの経験や体験を積むこともとても大事だと思います。その為にも子どもたちが遣りたいと思う事をいかに邪魔しないかが大事だと思います。この貴重な体験や経験が人と人との関わりの中で必要な心の繋がりを作っていくのだと思います。やはり何かを教えるのではなく、どうしたら子どもたちの心が揺さぶられるのかが大事だと気づかされます。
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分かろうとしても、納得できる様に頭で考えているだけで、結局は本当には分からないと学びました。分かり合えることを目指すのではなく、心を寄せて信じる事を大切にして行きたいと思います。