萩の松陰神社に行くと様々なことに出逢える。私は松陰先生を尊敬しているけれど、その弟子高杉晋作との邂逅は毎回感じるたびにとても深い学びを得られる。
自分の生まれてきた意味を素直に感じ尽くすとき、人は仁や義に出逢うのだと思う。そして、その仁義とは、如何に生き、如何に死を全うするかを天地人に問う普遍の道なのだとも私は思う。
生まれながらに自分のあるがままのその性を知ろうとし学問を深め生活をし、その自らに備わる徳を明らかにし、他人をゆるし思いやり、天地宇宙の万物造化の法則に沿って生きていると、次第にその心が清く澄みまるで幼児のような自然な心持になる。
しかし、その姿が姿かたちが大人なのにあまりにも童心そのままであると人はそれをとても恐れる、なぜなら社会の中では在る程度、大きくなるまでに擦れて形作られ、刷り込まれており大人びていないと人間社会の縦横集団の暗黙のルールの範疇では成り立たないとし、その日頃、無理をして覆い隠してきている自分の本心からの率直な感情がその人を自由にはさせない。
たとえば、現在では何かしらの障碍を持っているとレッテルを貼られてしまう人も、あまりにもその心が童心であるがゆえに大人に受け容れられず排除されようとされてしまうのもそういう理由があるのだとも私は思う。
大きいままであまりにも童心であると奇人や変人と言われる。
それを人間の社会で維持していくには、とても実力だけではなく学問もいるし、一般常識を弁えることなどもいるが、皆はそれをとても嫌がる。せっかく楽しく幸せに生きていることを手放すほどの勇気がいるし、我慢がいる。
子どもたちは、偏見もなく自然にそういうものを受容しているけれど周囲の大人はそれを酷く怖がる、自分が馴染んだこの社会の規律を乱すことは自分の信じてしまった個性を偽るものになるからだ。だからこそ、幼いときに社会に適応できるようにと仕込んでいく。
しかし、もしその童心を学問により修身し、自立するとその卓越した知識と実行力から理論を持ち行動や実践で社会に自由に自己表現できる人が現れる。
私の周囲にもそういう人たちがいるが、人はそういう人間を観ると心底感動するものだと思う。
こういう人を私は「偉人」と定義している。
思ったことを思ったように、素直な心を素直な言葉で、自分を偽らず誤魔化さず、他人を欺かず、真心と清く澄んだあるがままの眼差しで語りかけるとその人間に神を見出すことができるのもまた人間の妙なのだとも思う。
子どもの中には、とても不思議な真心がある。
自然に、自分の性を知り、その性をどう今の社会で活かそうかと素直に周囲を受け容れようとする。
それが自然=真心の社会であればあるほど、子どもは安心して自分の命の赴くままに自らで道を定めて歩もうとする。
童心とは、もっとも自分の命を立てるのに必要な要素だと私は信じている。
吉田松陰は確かにそういう人だったのではないかと、特に似ているところがあり私の中の心を奮わせられる芯の部分に確かにその真心は存在してる。ただただ、好奇心旺盛で、感激し、感動し、感謝する、そして時に義憤し、時に穏やかで、時に静かに、自分の命に必死になる。
子どものように毎日、無心で真剣に生きることはとても生きている実感が味わえる、それが幸せであるというふうに感じてしまう。
私が吉田松蔭先生とその弟子高杉晋作の交わした言葉で好きなことがある。
それは、以前、晋作が死生観について松蔭先生に尋ねたとき「人はいつ死ぬ時がもっとも良いのですか」と言うことに対しての答えを松蔭先生が獄中で死の直前に晋作に返信した答えが手紙に書かれたものだ。
『貴問に曰く、「丈夫死すべき所如何に」。僕去る冬已来、死の一字大に発明あり。李氏焚書の功多し。その説甚だ永く候へ共、約して云はば「死は好むべきに非ず、亦にく悪むべきに非ず、道尽き心安き、すなわち是死所」。「世に身は生きて、心は死す者有り、身は亡びて、魂は存する者有り、心死すれば生きるも益なきなり、魂存すれば損なきなり」。又一種大才略ある人、恥を忍びて事をなす、妙。又一種私欲なく私心なきもの生を偸むもさまた妨げず。死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。僕が所見にては生死は度外に措いて唯言うべきを言うなり。』
人は、もっとも死ぬ価値のあるときに死ぬのが良い、もし生きて何か大きなことができるのならば生きながらえることだ。ただ、私はそういうことは生死のことなどを考えないで命を尽くすのが良いというようなことだと思う。
義を立て一期一会で生き切ることに童心のあるがままの性も融和していくこと。
その松陰が共感して学んだ李氏焚書に「童心とは真心のこと。童子は人の初め、童心は心の初めである。長じて道理や見聞が心に入り、童心が失われる」とも書かれてある。
幼児期の子どもたちに与える様々な大人の刷り込みを取り除き、見守り、その子が幸せに自分の人生を歩めるようにより環境づくりのためにその命を尽くしていきたい。
社業を通じて、私が歩む道を弘げていけるように念じていきたい。しかしこの師弟から何を学ぶかと言えば、カグヤのトレードマークの竹を忘れず、常に硬すぎず柔らかすぎず、しなやかなで節のある穏やかな竹のような存在でありたい。
時を待ち、その時が来るまで、自らを修め、その根と節を持ち風に揺られながら仁義をいつも優先してこの道を深めていきたい。
コメント
竹が持つ柔軟性とは、竹が持つ強固な根があるからこそ成り立って居るのだということや、根もなく柔軟にしていては強い風が吹けば、根ごと持っていかれてしまうということを教えていただいた時に、自分自身の信念がどれ程まで根を張っているのかを意識するようになりました。自分自身の信念の根をどんどんと張り続けていくためにも、常に感性を磨き、素直で居続ける努力が必要であり、気づけば御座なりにしている自分が居ました。流行や現象ばかりに目をやるよりも、根を張るために心眼を使っていきたいと思います。
コメント
継続的な日々に流され、なんとなく生きてしまっていることがありますが、自分は何のために生かされているのか、何のために社業に務めているのか、
改めて自覚し、二度とないこの瞬間、瞬間を大事にしていきたいと思います。
よく耳にする言葉ですが、その人の生きた功績を知るには、何を残したかでわかるとありました。
また残したものによって段階があると言われていましたが、一つに財産、次に仕事、最後に人。
人を残すことがもっとも難しく、もっとも次世代に影響力を残すと言われていますが、その人の生きざまが人を感化させ、思いを次世代へと受け継がれていくのだと思います。
価値は無限、命は有限であることを念頭におき、自分は何のために生きているのかという思いを
大事に毎日を過ごしていきます。