子どもを愛し切ること

昨日は、見守りと導きを理念に掲げるパートナー園の園長と一緒に話を深める機会があった。

現場での実践を開始するにあたり、色々と御互いの共通理解やまた何を約束するのか、その信頼関係というものへの関わり方や心の開き方などを含めて様々な話をした。

その中で、保護者というものへ対してどのように接していくかについてなども話を深めた。私は、保護者を含め周囲の大人に対しては子どもたちに時代を譲っていく存在であるものと定義しており、自分たちの子ども時代そのものが未来の社会なのだから当然、子どもたちを見守り、何を譲り、何を与えられるかを皆で考えましょうとそれぞれの大人たちが愛と真心、つまりは親心を発揮していこうと、先祖代々から私たちがあることを問いながら共有していくことを大事にする。

また園では理念を明確にしなければ、地域の子育ての拠点といっても何をやりたいのか何ができるのかが分からないままでは当然多くの人たちと協力し合うことも難しくなる。

つまりは、まずは自分がその信念や理念を周囲へ表現することで誠心誠意を尽くしていくことを優先することで心を通じ合う関わりを持てるようになるというもの。

経済主導の社会の中では、サービスというものが何かをやってあげることであるからこそ、見守るということはとても理解していただくことは難しい。だからこそ、そういう見えない価値に対してどれだけ真剣に皆で心を籠めて取り組むかで長い年月を経て多くの良縁を結ぶことができ子どもたちが譲り受けることができるのではないかと感じている。

その園長との話の中でとても印象深かったのが、保護者との会談の中でのやり取りの話だ。つい保育者や保育従事者から見ると、親は自分の子どものことばかりについて要望してくることもある。しかし、その応えに対してどのように返答するかということだろうか、園長は保護者との会談でこう話をしたという。

「自分の子どもをどんどん愛してください、自分の子どもだけはといつも大事にしてください。そうしていれば、深まっていけば必ずその子どもの周囲の子どももどんどん愛していかないと自分の子どもが良くならないと気づけるからです。だから私は、「自分の子どもばっかり」などとは言いません。とことん深く自分の子どもたちから愛しきってもらえれば必ずそれは多くの子どもたちへの愛になりますから。」

これはよくマザーテレサも言うけれど、本当の愛は平等で公平であるし、本当の愛はそこに広大無辺な無限の愛が顕現するということと同じことだと思う。

そして私は社業の理念である「子どもを第一主義」にというのは、つまりはこういうことだと思っている。

どこまで子どもたちを信じ切るかとなると、そこに自分のエゴや私欲、自分の都合の中での子どもに良いではどうしても子どもたちのことを本当に愛しきったかとはいえないと思う。

何の遠慮もなく、何の躊躇いもなく、心から真心で愛するように自らの心に清らかであり素直にその本々備わっているあるがままの親心で無償の愛を与えきるとき、育まれる側がその真理を受け継いでいくのはすべての生命のあるがままの本質であると私は思う。

私の尊敬するポーランドのヤヌシュコルチャックにもこうある。

「子どもを理解するとは自分自身を理解することであり、子どもを愛するとは自分自身を愛することである。」

自分にも必ず子ども時代があり、その子ども時代を深く愛することが子どもを愛することにも繋がっている。

古語にも童心には神が宿ると言われることがあるけれど、純粋無垢な心のままでいることは何よりも子どもを第一にしているという自らへ向けた真心の実践でもある。

見守るというのは、そこにどんな社会環境があったにせよ、どんな刷り込みの中でトラウマが沁みついたにせよ、まずは自分自身がそれと正面から向き合い、堂々と正直に周囲の人々とともに思いやりのある温かい社会を生きていくという自覚を持つことに繋がっているのが何より人の道であると私は思う。

そして人は一人では生きていけないのだから、それを同じ志を持つ人たちや、同じように苦悩で生きる人たちと学び合いながら自立し、心と力をあわせ、認め合い、支え合い、助け合い、貢献し合いながら生きていくという自らの人生を真摯に生きていくという信念を持つことでもある。

カグヤの理念「子ども第一主義」でいうところの子どもの心は、子どもはいつも周囲に愛されて大切にされることを一番望んでいるという現実を大切にすることであり、それは教育や保育などと分類分けする以前の生命全ての基本理念であると私は思っている。

師の語る「Mimamoru」の本質は子どもをまるごと信じているからということが何よりも優先されている。

これからも、色々な温かい意見をすべて社業の理念の有難い糧とし、支えてくれている人たちや応援してくださる人たちの感謝を実践で子どもたちに譲っていきたいと思う。

  1. コメント

    どんな業界のどんな仕事でも人との関わり合いが仕事としての経過と結果して成り立っているのだという認識しています。だからこそ自分の思いを相手に表現すること、説明を尽くしていくことが関係性を創りあげていくことになるのだと思います。
    また、自分たちの仕事の本質を第3者の方や地域社会へ発信することは業界や自分たちの価値を創り上げていくことにもつながっているのだと思います。
    いつかの社長の話しの中で子どもとして生まれおち、生きないがらにつけてきたものを年輪と共にはぎ取られ、晩年には子どもに戻っていくことを考えると、子どもの純粋無垢で素直な心を子どもから学ばなければと思います。
    自分自身にとって子どもは先生のような存在だと感じています。人生の大半を占める仕事において、子どもと関われる環境に感謝の気持ちです。

  2. コメント

    一人はみんなの為に、みんなは一人の為に。
    一人ひとりが、自分自身を本当に深く愛し、大事にし、本気で取り組もうと思えば、自分が一番大事に活かされる環境は、自分一人では用意することは出来ないということを、今回のブログで学びました。
    私は自分自身を平静に保つことや、本質を学ぶ環境としてヨットをやっていますが、例えば風が無いだけで、また太陽が無いだけで、乗ることは出来ませんし、また乗っている時も、自分のことしか見えていないと、進みません。風に、波に、乗らせていただいているという感謝の気持ちや謙虚さが無ければ結局はうまく乗ることは出来ず、自分自身を大切にすることも、本質に触れることもないように思います。だからこそ、自分を大事にするには、海や、山や川や自然を大切にせざるを得ないのだと気づくのだと思います。しかし、まだまだ気づかずともやってしまっていることが沢山あるからこそ、海が私を迎合してくれる瞬間が少ないのだと思います。何が大切なのかを教えてくれる有り難い環境に感謝しながら、対話していきたいと思います。

  3. コメント

    何事も自分と他人としてモノゴトを考えたり、関わり方を決めていたように思います。
    今になって「人類みな兄弟」の意味も感じ始めました。
    人は自分の存在を認知することもその中で自己肯定感を得ることも利益を生むことも人と人との関わりがあってこそだと思います。
    他者を愛することは自分を愛することと変わらない、他者への思いは周りまわり、
    自分へ返ってくる。
    他者が悩んでいるときは自分の問題として悩むことや他者が喜んでいることは自分のことのように共に喜べる自分でありたいと考え、人と人との関わりの中で本当の豊かさを実感していきたいと思います。
     

  4. コメント

    愛するということや信じるということを本当に突き詰めていくことのその影響力の強さというものを、私は想像できていないのだということを実感しています。また、ワクワクしてしまっています。今自分自身が知っている、愛するということの素晴らしさ、信じるということの素晴らしさ。ここに満足してしまっているというか、そこまででとどまってしまっている状況では在りますが、実際にはマザーテレサや藤森先生のように愛することや信じることを突き抜けて実践していらっしゃる方が感じているその意味をまだ分からずにいることが、勿体なくもあり、ある意味で期待感もあるような状況です。自分自身の子どもをとことん愛し、信じること。
    日々考え尽くして行動に移していきたいと思います。

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