懐かしい関係

カグヤにはかんながらの日というものがある。

それぞれの夢の実現、個人の成長、使命の成就、人生の充実などのことをすべて総合的に包みそれぞれが自立していけるように時間を毎月設けている。

私たちの仕事は、子どものモデルになることであり、その人として童心として純粋無垢に人を思いやり認め合うという仁慈の心を大事にしていくことを理念の柱に掲げて「子ども第一主義」と命名している。

その理念の実現には、何よりも知行合一する誠の実践が必要であり、その誠の中にある真理に触れることで愛を感じて自分を変革することを優先し、自分の変革こそがミクロの世界での自修であり、それを社会のため、全世界の子どものためとし改革することこそマクロの世界での自浄でもあると定義する。

まずは、私たち自らが自浄作用を働かせて世界の飢えと渇きを潤そうといった経済と道徳の一致のエネルギー玄となろうというものである。

私は玄米を大事にするのは、私たちは天地自然の恵みそのものとして全体一粒一円丸のようなあるがままのものになることを目指し、何よりもその大極において中庸とし調和を取ろうとするのが私の哲理でもある。

そこを基点にコンサルティングというものの人としての部分に何よりも大事にしていることがある。

先日、ある人より「離れているのになぜそこまでいつも会っているようにお互いに親身になるのですか」と聞かれたことがある。

私は教育保育というパブリックな仕事に携わり、そのパブリックの顕現のような師と道をともにするなかで自分の時間がとても少なくなってくることがあり、昔のように友人と長話する機会も遊ぶ機会も少なくなってきている。いつも関わっている御客様や同志、子どもたちを家族同様に心配しているとどうしてもそういう時間の優先順位が下がりとれなくなってくる。

しかしいつも何か有事があったり失意の時には、誰かから連絡がありいつも励ましたり支え合ったりしている。それは私自身、きっとそういう関係ばかりを築いているからだともあるとき思えた。

仕事も同じくして、離れている時間が多いけれどいつも思って心配している、師のいう見守りであり、孔子の言う恕ということであるかもしれない。そういう意味でいつでも傍にいるという自分の何よりの誠に問いいつもその答えが同じであるかどうかは日々の内省の中でなんども確かめている。

これは家族でもそう、離れていてもいつも心の繋がりは切らずに相手を思いやり続けていること、その今をこの瞬間もいつも祈るように、そして念じるようにいることが何よりも天を信じることであり、人を愛することだと私は思っている。

この心を優先するということが懐かしい人間関係を築けるのだと私は思う。

お互いが信頼し合うとそこに距離はない。
そして、お互いが心で支え合っているとそこに時間はない。

こういうまっすぐで素直な不器用な純粋な子どもような心を持つ人たちが生きにくい社会だからこそ、何よりも私はこういうものを大事にしていきたい。

心が傷つき折れそうになっても、いつも大事な場面で愛と真心でその人のことを丸ごと信じることで支えられる自分でいたいと心底思い、また新たに誓願する。

この繋がりの始祖、根源宇宙のような懐かしい関係に触れながら、かんながらの日を楽しんでいきたいと思う。

感謝。

  1. コメント

    藤森先生のお話の中で親子の愛着関係に距離や一緒に居る時間は関係ないという言葉をお聞きした時、人を愛するということや、自分以上に心配し心を使うということが何なのかということを改めて考える機会となりました。愛するとは自然の道に心を置くことではないかと考えるようになりました。自分でも相手でもなく、自然という真理に常に心を置くこと。厳しくする時も優しくする時も、それは自然との距離感で振れるものではないかと感じます。心を常に自然に置くことで友人も、家族も、皆が繋がって居てくれるように思います。それは、人は不自然に生きながらも、心も体も自然を欲し、自然の摂理に納得するという、自然界の生き物だからだと思います。到底、私はそういった境地にも至りません。
    また、割り切れないことを人情と言い切れるほど、世の中が分かっているわけでもありません。
    しかし、海や風と共に居る感覚を思うとそう思えて仕方ありません。
    今年の夏は少し、そういった事に向き合ってみたいと思います。

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