時代的にか、最近は自分で色々なことを決めない人が多い、他人に決めさせたことを決めたとし、本当の意味で自分の決めたことに責任を持とうとしない甘い人が増えてきているように思う。つまりは、自分の人生に納得していない人たちが多いと言うこと。
甘さを思うと、過干渉過保護に何でも自分で決めさせずにその人を手伝うとその人にとっての人生が喪失することになることが在る。どうしても誤った判断をしてしまう人間らしい弱さではなく、決めないから、また決めたことをやらないというのはそれは弱さではなく単なる甘えであると思う。
もともと自分で物事を決めない人は意志薄弱だと言う定義が在る。
なぜなら、決めないことで自分が自分にとっての都合の良い人でいられるからでもあるし決めなければ意志を持つ必要もないからだ。
しかし、自分の人生がそのままで本当に良いのかを自問するとき、そこでそのまま受身に人に覆いかぶさって連れていってもらおうとする人と、それを自分の意志で主体として自分の足で歩む人とがいる。
何でもそうだけれど、自分の人生にならなければ幸せにはなれず、自分で納得しなければ自分というものを正しく修得していくことはできない。
それなのに、自分で考えず他人にばかり責任を押し付けて自分の面倒を観てくれるか見てくれないばかりを試して依存するというのはとても危険なことだと思う。
そしてその依存に対して甘える人もいる。
そういう人はどんな環境の中でもその環境に甘んじる、例えば、自分が好きなことをやっているからと好き勝手にやることが良いと思い、本来好きには色々な制限や制約があるのにそれは果たそうとはせず、好きなことをやっているのだからを単なる好きなだけやらせてもらえると勘違いし自分勝手自己満足に甘えてしまうということ。
これでは、いつかはその好き勝手が他人に迷惑を増やしその場を去るようになる。
もし、環境に甘んじず、結果責任を持ち、全体の役割の中に自分の存在が明確に立ち、相手も自分と同じように納得した「決める人生を歩んでいる」と言う風に自立して公平に平等に思っているのならば、環境に甘んじるはずはない。
むしろその環境が厳しく感じ、より意志を強くして様々なルールを守るために自律していくことができるのだと思う。
その組織を築くリーダーは、当然、甘えがあってはならず、お互いが納得する人生を歩むために、単なる上辺だけの薄っぺらな同情やもしくは肩書きからの刷り込みからの差別感情か、もしくは孤独で寂しいことなどからのエゴで愛着をわざわざ持とうとするのはお互いに同じ目的を持った同志として自立しているとは言い難いと思う。
人はそれぞれの命を天から与えられ、その人なりに自分自身で生きていくことではじめて平等に公平に天から命を分け与えられる存在となる。
どんな環境下にあったとしても、自分の与えられた環境の中で精いっぱい生きるのは、自分から自分の人生を納得するように生きるということであり、それは周囲の環境に甘んじず依存しないという自分の強い決意、自分の意志がいる。
それは簡単に言えば、物事に対して結果責任を持つことであり、それを自分で決めれることだと思う。つまりはここでの結果とは、責任のことであり、任されたことに対してどれだけ自分が本気であるのかが問われるのだと思う。
自分で決めないで流されると言うのは、周りに迷惑をかけていることをすら自分勝手に自己満足に浸りたいというのはともに活かし合おうとするのではなく、誰かに縋っていたいというただ苦しみから逃げたいという甘えになる。好きなことをやるのには必ず責任が生じる、その責任から逃れたいから好きなことをしないや、好きなことをやりながら責任を取らないのは無責任ということになる。好きなことをやる自由には責任が伴うのだと思う。
その責任をどう果たすのかを自分で決断することで、周りへの感謝に気付き、周囲と共生し貢献することでより社会や人々を良くすることで自分の人生の生きがいを感じることもできるのだとも思う。
つまりはここでの本当の甘さとは何か?
それは、自分の人生にこれでいいのかを自問しないこと、考え切らないこと、さらには他人のせいにしようとしたい自分自身と正対しない甘えた根性のことを言うのだと思う。
幼少期に、どんな過保護過干渉、放任無関心を受けたのかはわからないけれど、このままで本当に良いのならばそれでもいいけれど、それは自分自身で決めないといけない、あくまで周囲は納得できるように手伝うことはできても代わりにその人の人生を生きてあげることできないからだ。
自分の人生は、まず自分で決めるところからはじまる。
それは、仕事でもそうだけれどどんな理由があったにせよ自分が納得するように意志を固め、その意志を貫くことだ。それを簡単にルールを破るや、何かの約束を忘れるなど、当然、人としてもあるけれど、それ以前に何より人生への「姿勢そのもの」が受身であれば何をやったとしてもそれは結果責任を取れることにはならない。
自分で決めた以上は、その責任は自分で取る覚悟を持つことは姿勢を正すこと。
それこそが自分の決めた人生、自分の決めた本当の意志、自分の自分らしい人生であると思う。
今の人たちは何かと流され他人のせいにし、自分で決めずに決められることが貢献だと勘違いし、不幸になることも他人のせいにし、自分の人生も他人に委ねて金太郎飴のように個性がわからない人たちが多い中、子どもたちには自分らしい自分の人生を生きられるように自分で考えて決断し行動できるような人になれるような自立を促すような大人の見守りを用意していきたいと思う。
大人たちが今は自分で決めない以上、子どもたちは依存されて本当に大変だけれど、その中でも自分のやりたいことが甘えずに立派に自立して行えるよう、自分はどうしたいのかを決めて納得できるように厳父と慈母の心で真摯に関わっていきたい。
私自身、結局相手を甘やかしたことで自他を受身にし縋りの悪循環をするのなら、本懐とは異なるので、刷り込みよりも相手を思いやりぬき、相手の人生の本当の幸せを願い、本人が納得する道を歩めるようにクールに温かく支援していきたいと思う。
コメント
自分がやりたいと思ったことを強い信念を持って自分の中で最後まで保障してあげたいと思います。
自分の人生の監督はもう一人の自分でしかないと考えます。
自分で決めたことの先にある結果がどう出るか怖いのであれば、もっと主体的に怖さを味わって
みれば、何かを見いだせるだと思いますが、プロの要素の一つとして仕事の本当の怖さを知っている
こと、だからこそ今、自分のできる最善の準備を行い結果に対して不安や迷いを無くしていくのだと
思います。ブログの中に「手伝うことはできてもその人の人生を代わってあげれることはできない」
とありますが、本当にそう思います。
自分が死ぬ間際になって生き延びることに強い未練を持ち、死ぬことへの強い恐怖を抱いても、
眼の前の人に代わってもらうことはできず、ただただ自分の死を受け入れ、あちらの世界へ向かわねば
ならない日がくるのだから。
一日、一日を明るく、前向きに、自分の足で自分の人生を味わいながら歩いていきたいと思います。
コメント
自分自身の課題をここに明確に感じます。
会社のデスクに決意表明としてマンデラ大統領が投獄中に心の支えとした詩を張っているのですが、その中の一文に「私が我が運命の支配者 私が我が魂の指揮官なのだ」という一文が在ります。自分自身の人生の舵を握っているのは紛れもなく自分で在り、風を受けるのも風を逃がすのも風を活かすのも自分で在る中で、実生活ではどこまでそこを自覚しているのだろうかと振り返ると、自覚していない部分には沢山の楽しみや喜びの要素がまだ埋まっていることを思います。人生の楽しみや喜びを感じるにはやはり自分自身で決めて行動すること。行動せずにいるからこそ後悔や苦しみばかりが待っているように思います。人生は間違いなく一度しかない。この今という一瞬も間違いなく一度しかない。自分で決めるも誰かに依存するも、同じ時間軸を生きていく訳ですが頂いたこの命を粗末にしないように、決めて守るということを大切にしていきたいと思います。