先日、「めでたい」ということについて触れる機会がありました。昔から、何かの御祝があるたびに私たちは「めでたい」という言葉を使います。
御祝の「祝」は祈る、祭る、祟るといった意味も篭めてあり全ての出来事を福にするという意味もあるように思います。全ての有難いご縁を心が感じて神様から最幸の賛美を贈られていることに感謝しているときがこの「めでたい」というものであろうと思います。
人はそれぞれに様々なご縁のつながりの中で生きています。
その人生の中では、現実的には出逢い別れと、前に進むためにご縁は常に円満に廻り巡ります。しかし人間には感情がありますから、時折理不尽だと悲しくなったり辛い思いもします。また逆に嬉しいことや喜ばしい思いもします。そういう出来事そのものを、「丸ごと」めでたいことだと実感するときはじめて私たちは前進していく魂の幸せを噛み締めることができるのかもしれません。
そう考えてみると、「おめでとう」という言葉も沢山いただいて今日まで生きてきました。
誕生日おめでとう、卒業おめでとう、入学おめでとう、、、様々な場面でおめでとうと出会いここまで来ました。沢山の方々におめでとうという言葉を戴いて育ってきたように思います。人生には無駄がないからこそ、おめでとうという言葉が最も私たちの生活に深く根付いているのかもしれません。
毎日が、素晴らしい日々であることを祈るように生きていく。
全ての出来事は、出来事そのものが有難いご縁で起きている。
そしてそのご縁そのものが幸福なのだと賞賛していこうという思想。
私たちの大和魂、随神の道にはこの「めでたい」という生活習慣があることを学び直しました。
これからも時あるごとに、事あるごとに、「めでたい」という気持ちを忘れないでいたいと思います。言霊を大切にこれからもかんながらの道を祝っていきたいと思います。
有難いご縁に、邂逅に、めでたし、めでたし。
コメント
最後の「めでたし、めでたし」は、すべてを福にする意味からあるから最後に遣われているのだと繋がりました。途中どのようなことが起きても、昔話のように最後は「めでたし、めでたし」で結末を迎えるのは、どんなことも善くしてしまう不思議な力があることを感じました。幸せの言葉は遣った人も周りにいる人も発酵を促されるのは、幸せな言葉が身体に馴染むからなのだと思います。ありのままの気持ちを伝えられたあの場のように、
安心した気持ちで話ができたのは、繋がりという安心感を感じていたからなのだと思います。おめでたい席にお招きいただき、こんなにも幸せを感じさせて頂いていることに感謝の気持ちでいっぱいです。感謝の気持ちをお返ししていけるよう、精進していきたいと思います。
コメント
目出度いという価値観を体験する貴重な一日でした。言葉ではうまく表現が難しいですが、どれ程の奇跡の積み重ねで今の自分があるか、今日を迎えているのかを考えると、本当に目出度いと思います。この大切な瞬間を味わい、誠を尽くして行きたいと思います。