人倫の道に中江藤樹の孝徳がある。
もともとこの孝徳とは、親孝行の心を持って天地のからの恩に報いていくという報恩感謝の心の発願でありその人として親を敬愛する実践が人としての完全なる自然のものだと説いたのだと思う。
親によく仕え、親の言うことは必ず聞くということが子としての孝心でありその無償の愛を正しく受け取るということでもある。親の正邪善悪を子どもが理解することもなく、そういうものは死後もしくは同じ境地ではじめて溶解するものであり自分の尺度で思いこんでしまえばそれは過ちとなる。
どんな理由があったにせよ、両親への孝行こそがもっとも大切でありその心が愛敬を産み育て、一円満な家庭を築くことになり、子子孫孫の繁栄と平和と継承を創造し思いやりある人としての道になる。
中江藤樹の「翁問答」にこうある。(岩波書房)
【元来孝は太虚をもつて全体として、万劫をへてもおはりなく始なし。孝のなき時なく、孝のなきものなし。全孝図には、太虚を孝の体段となして、てんちばんぶつをそのうちの萌芽となせり。かくのごとく広大無辺なる至徳なれば、万事万物のうちに孝の道理そなはらざるはなし。
就中人は天地の徳、万物の霊なるゆえに、人の心と身に孝の実体みなそなはりたるにより、身をたて道をおこなうをもつて功夫の要領とす。
身をはなれて孝なく、孝をはなれて身なきゆへに、身をたてみちをおこなふが孝行の綱領なり。おやによくつかふるも、則、身をたて道をおこなう一事なり。
身をたつると云は、我身はぐわんらい父母にうけたるものなれば、わが身を父母の身と思ひさだめて、かりそめにも不義無道をおこなはず、ふぼの身を我身と思ひさだめて、いかにも大切に愛敬して、物我のへだてなき、大通一貫の身をたつる也。
さて元来をよくおしきはめてみれば、わが身は父母にうけ、父母の身は天地にうけ、てんちは太虚にうけるものなれば、本来わが身は太虚神明の分身変化なるゆへに、太虚神明の本体をあきらかにしてうしなはざるを、身をたつると云也。
太虚神明のほんたいをあきらめ、たてたる身をもつて人倫にまじはり万事に応ずるを、道をおこなふといふ。かくのごとく身をたて道をおこなふを、孝行の綱領とす。
親には愛敬の誠をつくし、君には忠をつくし、兄には悌をおこなひ、弟には恵をほどこし、朋友には信にとどまり、妻には義をほどこし、夫には順をまもり、かりそめにもいつわりをいはず、すこしの事も不義を働かず、視聴言動みな道にあたるを、孝行の条目とする也。
しかるゆえに、一たび手をあげて、一たびあしをはこぶにも、孝行の道理あり。
人間千々よろづのまよひ、みな私よりおこれり。
わたくしは、我身をわが物と思ふよりおこれり。
孝はその私をやぶりすつる主人公なるゆへに、孝徳の本然をさとり得ざるときは、博学多才なりとも真実の儒者にあらず。まして愚不肖は禽獣にちかき人なるべし。】
とある。
もともと天地は太虚であるとは、もともと何も見返りを求めない無償の愛がありそのものの実態は存在そのもの、いや存在しないほどに広大無辺、無限の恩が備わっているとしている。
そういうものの恩恵により自分というものがこの世に存在することができるということそれこそがもっとも有難いことではないか、その存在と同じくするものこそ親孝行の道であるとしたのだと思う。
親というものは、天と同じく、太虚つまりは無にして空であるほどに偉大なものだというその感受する心こそ「孝」であるとし、それだけ無私に仕えてはじめてその徳が磨かれるという大いなる道であるとしたのだと思う。
その孝行をする心を忘れ、自我に囚われ迷い、自分の体は自分のものだと自分勝手に親との繋がりを断絶することこそ親不孝であり、本来ならばいつも子は親を心配し、親のことを懇ろに大事にし、親を敬い奉ることをしてはじめてそのエゴは取り払われ、本来の正しい道徳に適った生き方ができるというもの。
そこから、君には忠を尽くして仕え、年長者は立て、年下には恵み、朋には信頼を、そして夫婦には筋道を重んじ、一切の虚言や偽りなどを軽々しく言わず、正しくいつも律儀に仕事をし、その見ること聞くこと、話すこと、行うことすべてが道になっている。これこそが本来の孝徳の道であるという。
自分のモノサシで天が分かるはずもなく、自分の尺度で孝が分かるはずもない。
一部の不信すらもないほどに、天を敬い愛する心と同じくして親を敬い愛することができてはじめてその孝徳の意味を知ることができるのだと思う。
親に対して孝ということの無限の徳は、無私であることを実現し、そういう状態であるときこそ中庸であることができるというもの。
自分と言うものをはき違い、自分のことばかりを大事にし、そういう父母の恩を感じなくなった所から御縁への感謝や、無償の愛へ対する徳の実践への怠慢がはじまり驕りが生まれる。
常に日々の生活に父母の感謝の心を持って、正しい道を歩みたいと思う。
本来あるべき姿は孝徳であり、孝徳こそが今の時代のあるべきように繋がることを信じて、子ども第一主義の大義を貫いていきたいと思う。
コメント
お盆を通じて沢山の親戚と会うことが出来ました。また、多くのご先祖様へお線香を挙げることが出来たことは、何よりも多くのご縁というものを実感でき、自分自身がご先祖様が居るからこそあるということに気付かされる機会でした。
また、そういった親戚とお会いする機会に触れれば触れるほど、自分よりも親戚の方々の愛が深いこと、気遣いを多く頂いていることを実感しました。ご縁を大切にするということは、本当に日々の積み重ねで在り、常にそのことを考えていることが大切なのだと学ばせて頂く機会でした。
身近な方々への感謝とご縁を大切にすることについて、改めて実践で考えていきたいと思います。
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ロハスという言葉の意味に持続性が含まれていますが、現代の人間社会にはこの持続していかない
仕組みが多々あり、自然の摂理である持続や循環を無視して便利さを追求することが自然界と離れて
しまっているように感じています。
弛まなく持続、循環することの偉大さや尊さを考えると同時に親のありがたさも実感します。
核家族化が進んでいる中、親を知る機会が少なくなり、親から自分の先祖のことや地元の先人達の
ことを知る機会も少なくなり、親に対してまた自分に対しての誇りを持てるような話も聞けなくなって
しまっていて、生命の引き継ぎのようなことも感じられない時代ではないでしょうか。
この年になって自分は何もわかっていないことに気付かされますが、命の偉大さを感じて生きていきたいと思います。