日々の出来事の中で、その問題が何のせいかということを想うことがあります。
そもそも自他のせいと何かを責めるという考え方そのものは素直とは言わないように思います。言い訳をするところから人は反省をしなくなるからのように思うのです。自分に矢印といっても、相手か自分かという意味での矢印ではなく、常に自分を素直に変化させていき続けるかという意味での矢印は自分というのが本質であろうと思います。
どこか何かのせいにするというのは、大切なことに気づけなくなるというものです。正直というものは、常に自らを正すため直すという意味になるように思います。
しかしではなぜそれが分かっていてもできないのかは、そこに競争社会での刷り込みや他人と比べて自分がどうかと理解してほしいとかいった自我のプライドがあるからのようにも思います。特に人間関係の中で、互いが認め合わずにいがみ合い、自分を先にと主張すればそこに謙虚な姿勢や態度が働かずちっぽけな発想の中で囚われてしまいます。これぐらいやったらいいだろうや、ここまでやっているのだからなどという発想は自分自身が他と比べて自分を善くみせたいがためであることが多いように思います。
本来の自分を世の中へ役立てていくために己に克つための修行などもそうですが、何が修行かといえば自分の善くないと思われる思想や行動を修正し、それを実践することで直していくことで本来の夢を実現していくのが理性と感情を併せ持つ人間の業のように思います。
自分が好きなことや楽しみながら誠実に遣り切ることに真摯に取り組めば、自然に他人は認めてくれるし助けてくれるものです。そうしてまた教えてくださっているや、また自分の善くないところを指摘してくださっていると謙虚な心で感謝まで高まれば、自分次第で現実の運命をどうにでも転換していくことができるように思います。
つい、自分のできることを行わずに誰かにすがったりしてしまえば相手次第になって自信も失ってしまいますし自分で自分が立てることもできなくなっていきます。
物事は、自分でできることに人事を尽くし、後は天にお任せしていけばすべては自分次第になるように思います。当てにし言い訳をするのではなく、言い訳をやめて反省をすれば人はみんなどうにでも変化していけるように思うからです。
反省はしようとしてできるものではなく、やはり痛い目にあって怖い目にあって辛い目にあって感情と渾然一体になった中で深く気づき変わろうと決意するように思います。また同時に、素直は有難いと感謝し、素晴らしいと感動し、もったいないと感激する中でその感情と一体になったときに同じく高く気づき変わろうとする決心をするように思います。
何でも試行錯誤していくことを尊いと念じ、人事を尽くしていくことで不安もまた解消され後はお任せとお気楽なところに入るように思います。不安な時こそ、まだ人事を尽くせるのではないかと自分を省み実践を追及していきたいと思います。
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先日にコピー機の件のように感情と一体になっていると気づき変わろうと気持ちが自然と
芽生えていますが、自分に矢印と言っても納得できていない感情のときは、自らを正すために遣っている言葉ではなかったのだなと感じます。自分が先立つと謙虚、素直、共感、傾聴、受容もどれもうまくいかず、狭い中で陥っていることを感じます。自らを正し直すところまで自分に矢印が向いているか、一時的な感情に流されているときほど確認したいと思います。
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保育園に入園すると、現実として食事を食べられない、寂しくて泣いて仕方が無いなどの出来事が起こりますが、これも自分や相手が良い悪いと考えるのではなく、自分自身、両親自身が見守る実践の場を与えて頂いているのだと捉え、尽くして行きたいと思います。