青天白日

昨日、オランダからアースゲームのアナマイケさんが来日されて保育園にてワークショップをしていただいた。

言葉も通じず、文化も異なるものに対して、その思想と実践を照らし、日本の子どもたちと協働的に遊ぶことを通してたくさんの気づきを発していただくことができた。

どんなに表面上のものがあったとしても、人はその内実したものがなければ真に人を感化していくことはできないと私は思う。そういう意味で、自分の人生そのもので挑戦されている方は派手ではないけれど確かに其処に考えた信念を感じることができる。

先日、ハンガリーのわらべ唄を使った保育のコダーイというものにお仕事を通じている園の取り組みを通して縁があった。わらべ唄には、民族性を伝えていくための様々な関わりを唄で表現していたのが感じられた。

日本にも伝承遊びやまた伝統の様々なわらべ唄などが遺されている。

昔、興味深く学んだ野口雨情などもその人生の本質を童心で唄いきっているからこそ、その詩に子どもたちの心に通じ合うものがあったのだろうと私は思う。こういう真の情緒性というものは言葉では表面上を解説しても分かることはない。

感じることであり、それは自らを尋ねて本心に出逢うようなものであると思う。

昨日は、一つ一つの眼差しを遊びを通して学ぶことができ、私たちのクルーもみんなで協働的に関われていることに本当に感謝できる一日になった。

「みんなで一緒に」というのは本当に素晴らしいことだと私は思う。
みんながいなければ幸せも倍増しないし、みんなで一緒でなければ力をあわせて大きなことをやり遂げた人生の充実も分かち合うこともできない。

一人では生きてはいけないのではなく、一人だと実際つまらないと思っているのが生命なのだから、無理に孤独になるのはそれは心がまだ澱み晴れ渡った素直さを発揮していないからになる。

私が好きな言葉に、程明道の青天白日が在る。

「心静かにして方に能く白日を知り、眼明らかにして始めて青天を識るを会す」

これを佐藤一斎がこうひも解く、青天白日は常に我にありと。つまり心が静かであれば、よく太陽の恩恵を知り、眼が明らかであれば、初めて真っ青に澄み切った空の広さを知ることができる。青天白日とは常に自分の中にあって外にあるのではない。自戒の言葉とすればよい、とした。(佐藤一斎一日一言より

常に自分がどのように感じているかで本物の空も、本物の海も知ることができる。本当の智慧とは、心を澄まして物事をあるがままに受け容れることでありそういう心眼を開いているからこそ天の機縁などを感じることもできる。

人は、様々な機会を通してそれを繋ぎ新しいものに出逢っていく。

素晴らしい機会があったこと、心から改めて感謝しています。

  1. コメント

    自らを訪ねて本心に出逢うという言葉に深く感動しました。世の中で今起きている出来事に対して、自分自身も当事者であることを私は良く忘れてしまうように思います。第三者のように社会に対しての不満を募らせたり、こうしたら良いのにと自分がやることに成っていない議を言う場面を反省させられます。この業界で働くからということだけではなく、人間として、一人の大人として、自分がどうすることが世の中を改善できるのかを本当の自分に問いただし、見つめ合い、その決意を持った答えを自分自身の中に捜しに行くことが、大切であると勉強させていただきました。有難うございます。

  2. コメント

    心がどうであるかを感じることは自分と向き合うことになり、とても大切なことではありますが、
    また難しいことであり、人は何か失敗するときにも、無意識に何かに執着したり、偏見を持って
    モノゴトや出来事を判断してしまうことにあるのではないでしょうか。
    自分を知るには本を読むこと、芸術に触れること、自然に身体を預けることなど、
    様々にありますが、目の前のことに心が奪われると字のごとく忙しい、心を亡くしてしまう
    ことになるのだと思います。わらべ唄は人としての心を維持し、次世代へ残す先人達の創意工夫の
    文化だと感じました

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