世話をするというのは、頭で行うものではなく心で行うものだとよく実感します。
例えば、植物の世話などもそうですが頭で分かった気になり世話をしたとしても実際はその生き物への配慮や心配りがなければ枯らせてしまうことがあるからです。自然界で生きていれば、自然循環の中で自らで自分の棲家を移動していきますので順応も進みます。
しかし人間都合で用意された環境、ベランダや室内などは植物に合わせてこちら側が接し方を変えなければ安心して見守ることができなくなります。それに多種多様に個性が異なり、寒暖差や水の吸収、その他、風通しまで思えばどの場所が最適なのかもその生きている生きものによって異なります。
適材適所というのは、本来はこちらが適材適所に配置するのではなく、適材適所になるように私たちの方が変化させていく必要があるからです。
そのためには、少し先の季節を先に見通し、どのように接するのかをいつも配慮していく必要があります。そしてこの見通しとは頭でできるものではなく、やはりそのもののいのちに寄り添ったり、そのものの発達を見守る自分の心の状態により立つのです。
見通しとは、そのものがどのようにしたいのかをよく観ることでそのもののが何をしたいのかに気づくことのように思います。つい自分の都合で物事を動かしたくなりますが、本来の自然の姿はそのものがやりたいと思っている環境を用意していくことだろうと思います。
植物が枯れるのもそうですが、ほんの少し長い期間、そこから離れるだけである種類によって過酷なことであったりします。その時は、誰かに頼んだりそのものが自立できるように日頃の関わりを改善していかないといけません。
育てるというのは、とても配慮が必用だと思います。それは、こちらの期待通りに育てようとするのではなく、そのものが育っていることに感謝する気持ちで接していなければおかしくなるのです。
当たり前ではなく、有難いと思えるときだけが心を配っています。
しっかりと、感謝するままの自分の維持をし心を常に動かしていこうと思います。
植物から、成長を学ぶのに振動と震動、そして心動を観直しています。
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「花ごころ」がある人とない人では、「水のあげ方」から違います。「花ごころ」がない人には、花の気持ちはわからず、その声も聞こえないようです。この「花ごころ」とは「見守るこころ」でもあるでしょう。自分の心の中に、まず「見守るこころ」を育てる。そして、「自分が育てる」といった不遜な態度を改めてから、その「見守るこころ」で見守る、という姿勢が大事なのではないでしょうか。実践の前に、まず、その「こころ」を育てる必要性を感じています。
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遣ることが先立とよく観ていなかったと感じています。自分都合は楽ですがその分やっていただけだったのだと思います。先のことを考え、思い浮かぶ目標のもう一つ上の目標を定め行動していきたいと思います。
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育ちの主体は育てる側ではないながらも、育てようと考えると過干渉になってしまいがちです。育てようと思ったら、育つ環境を用意することなのだと、頭でわかってしまっている自分に気づきました。育ちのありがたさを感じ取れる生き方に自分自身を変化させて行きたいと思います。