先日、自己肯定感について話をする機会がありました。
一昔前までは、自己肯定感などという言葉はあまり聞かれない言葉だったと思います。最近では、よく教育の世界にいると自己肯定感がどうだという話題が出てくるようです。
これは何かと比較して不足を補っていくという強迫観念のようなものが存在しているのかもしれません。もともと唯一無二、たった一人、たった一度のその人という定義ではなく、あれもないこれもないと、こうあるべきという姿を叩きこまれると人は自分でいいと自分が感じられなくなるのかもしれません。
人を愛するということは、その人を丸ごと愛することであろうと思います。しかし、条件付きの欲望であったり、敷かれレールの中にいることが前提などと、世間のモノサシを優先すればその人はその人らしくいることを否定されていることになるように思います。
自分を愛するということは、自分は自分のままでいいということなのでしょう。
それには、まずそのものを丸ごと認め、丸ごと受け止め、丸ごと存在に感謝するというような有難い心を育てていく必要があるように思います。
自分のこれがいけないとか、これがダメだとか、そういうことを気にしていたらそのうちに他人のこともそういう風にしか見られなくなるものです。そういう自分がいるとして、それ以上にそのままでいいとか、善かったねとか、大丈夫と気楽に信じ切ってくれている存在に人は安心するのかもしれません。
自分自身も、安心する存在にたくさん救われています。それが何であろうが、今の自分が善い、このままで善い、今が何よりも善いと思えることが常に自分の存在を丸ごと実感できるものです。
自分のままがいいままに、そこは変えずに人生そのものは幸せを高めて福を広げていくために日々に自分の欲に打ち克ち精進していこうと思います。
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「愛する」「信じる」「受け入れる」ということは、本来は「丸ごと」のはずですが、そこに「条件をつける」ということがあります。結局は、その「つけたい条件」が自分のこだわり(自我)なのでしょう。特に自分に対しては、まだまだ「条件」が出てきます。「自分は無条件で愛されている」という確信がまだ得られていないのでしょうか。
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一日の場面を思い返したときにあの場面は有難かったと感じることがあります。ただその場では都合よく感じているところがあります。本来ならば奇跡のようなことを見逃し、6割くらいでしか感謝していたかったのではと思います。仕事の結果に対する6割とは訳が違うわけですから、自分自身の姿勢を省みして頂いていることに敬意を払っていきたいと思います。
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昨日、丁度自信について自分自身に刷り込みがあったことに気付きました。自信とは、「自分は出来るんだ!と信じてあげる事」と思うことだと思っていたのですが、だから上手く行かなかったときに自己肯定感が下がったのだと気付きました。「道を歩む自分自身が既に価値がある事。」その自分を愛する事が信じるという事なのではないかと今日のブログで学びました。有難うございます。