自然人間観

家の身近なところを散策してみると様々な生きものたちが棲んでいるのに気づきます。

鳥で言えば、雀に鳩に鴉、その他にも水鳥から山鳥まで様々な鳥がやってきては生活しています。またその他には犬や猫、魚、虫、植物、目には見えないような小さなものまで含めれば本当に沢山の生きものたちが存在しているのです。

日ごろは人間中心に生きていれば気づかないだけで、それぞれの生きものはそれぞれにとても自由に活動しています。本来はそれを邪魔しないようにすることが私たちの生き方だったのかもしれません。しかし今は、人間都合でそこにいた生きものたちへ配慮せず、その生活圏を壊しているものが多くあります。

もちろん自然淘汰とかいう言葉でその環境に順応できるものが生き残るのかもしれませんが、急激な変化に対応出来ない生きものの方が多いように思います。今は時間をかけて周りの生きものの順応を思いやるようなことを行う暇もなく、早く早くと何でも急いで結果を求めます。

かつての私たちの先祖は、それぞれの生きものがバランスよく存在していることがもっとも調和であることを知っていました。和楽というように、最も和した状態こそがそれぞれに楽しく幸せであることを感覚的に掴んでいました。

何かの都合や誰かの都合を優先することで、和でも楽でもなくなっていきそこから不調和が発生し様々な問題を次々に巻き起こしていきます。しかし貨幣経済優先の社会では、その問題こそが次の経済を生み出していくために必要としたとも言えます。

人間の問題を解決するのと同時に、全体の問題を解決するという発想が本来は大事なのではないかと思います。そこには傲慢に人間都合でばかりを考えるのではなく、謙虚に自然全体の調和から考えてどうすべきかを話し合う必要があるように思います。

すべての生きものはそれぞれに自分の生を、また役目を全うしたいと思っています。それがどのようにしていけば実現するのか、それをよく考えていかなければなりません。

だからこそこれからの時代は、そういう自然観を持つ人たちが対話を通して人間を導いていくことが善いのかもしれません。しかしそれは自然観があるだけではなく、そこには人間観も備わっていなければ分かりあえることもありません。

次の成熟に必要なのは、有為無為の自然人間という道の体現者が世の中を導くのかもしれません。子どもたちにたくさんの体験をしていくことを通じて、今の時代の調和を探っていってほしいと思います。

  1. コメント

    松下幸之助さんは、思い悩んだときに、じっと天地宇宙を考え、自然の景色を眺めて、その姿を経営に応用したといいます。その姿とは、この宇宙に存在する一切のものが、自然の理法に従って、おのれにとらわれず、それぞれがなすべきをなし、なさざるをなしていないということです。この「なすべきことは何で、なすべからざることは何か」ということの見極めが甘く、中途半端になっているのは、まだまだ私心にとらわれ過ぎているからでしょうか。

  2. コメント

    人から見ると沢山いる中の一人かもしれませんが、お役に立ちたい気持ちがあると役割を果たそうとする一人になると感じていますが、空回りしている今は自分都合になっているのかもしれません。話していることをまとめるでもなく、どうしていくべきかを一緒に考えていきたいと思います。

  3. コメント

    自然との関係性を見た時に、
    自分が奪う側なのか、与える(お役に立つ)側なのかと考えると多くを奪い生きている割に、与える事が足りてないように感じます。生かしてくれてる地球に恩返しが出来るよう、せめて奪うと与えるのバランスを一緒にして行きたいと思います。まずは日々の積み重ねから、大切にして行きたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です