人が何かを信じるというのは、不安も恐れも感じずに丸ごと他人の話を聴けるということであろうと思います。
人は自分にとって困ることを言われるのではないかとか、自分にとって辛いことを指摘されるのではないかと思うと、あえて相手の話を素直に聴こうとはせずに相手に言わせたいことを自ら誘導して聞こうとしていくものです。
つまり自分が不安と恐怖で満たされていたら、信じることができなくなりその結果として他人の話を傾聴していくことができなくなるのです。分からなかったら聴いてみるというのは、信じていなければできないものだからです。
本来の問題の原因は、自分の価値観の中にはなく正しいことは周りの人たちの素直な声を聴くことで知れることがほとんどです。それは自分の中では曲げたくないや受け容れたくないものであっても真実は真実なのでそこに嘘がないからです。
そういうものを素直に聴けて、受け容れることができ、精進できれば人は安らかに変化を楽しむことができるようにおもいます。そしてそういうものが私が感じる自信というものです。
人はみんな自信というものを誰かの評価によって得られるものだと思ってしまいます。有名になったり褒められたりしたら自信を持てるかのように思います。しかしそれは同時に、不安の種も増えていくように思います。誰かの評価があるというのは、なくなる不安も裏側では同時に育っているからです。ですから本来の自信とは、根拠のない自信のように自分の中でもともと信じているものがあるからそこに向かって努力して身に着けていくことのように思います。
私も不安とか恐怖とか思おうとすればいっぱいありますが、それ以上にやりたいと思うことや好きなこと、本来の自分の決めた生き方だからと今を遣り切って楽しんでいくことで自信を持つように思えます。またその自信をいつまでも裏付けるために、必死で挑戦して遣り切るようにもしています。
荘考えてみると、この不安や恐怖は自信を奪う最大の原因ではないかと思います。
もしも安心していれば、どんな出来事が起きていても、やってやれないはずはないとか、これはすべて成功するための失敗だとか、禍転じて福になるとか、シンドイ今こそ自分は磨かれているのだとポジティブになるのですが、自分自身が不安であればそうは思わないように思います。
自信とは、誰かによって得るものではなく自分の中に安心を創りだすことのように思います。人事を尽くして天命を待つのも、自力を尽くせば他力が入ると念じることも、すべては自分で安心を維持しそれを心に定着させることができるための努力の本質であろうと思います。
努力をするというのは、そういう自分との不安の闘いのようにも思えます。自分が不安とか恐怖とかを感じないくらい、そのものを楽しむほどに遣り切ることで不安は安心に転じていけるのかもしれません。
実践も徹底することで自信が持てるのも、それは不安を感じないほどに努力をしたという結果を示すからかもしれません。
どうやったら人が自信を持てるのか、これは今の私のテーマです。
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「自信」とは「自己信頼」ですから、他人に求めるものではなく、自らの心の内に築くものでしょう。自己の内にその可能性を求め、自分に見えている光を信じて、謙虚に追求し続けるという姿こそが、自信につながるのではないでしょうか。そういう意味では、「自信がない」と安易に逃げたり、「自信がある」と自惚れている間は、まだまだ甘いのかもしれません。
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不安な気持ちに陥ると思考がネガティブになることがあります。そのときに活路見出し行動するときは乗り越えようとする自分も居ますが、同時に評価によって自信が揺らぎ行動を決めているのではと気づかされます。乗り越えようとしているときの言動を見つめ、感情とも向き合っていきたいと思います。
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ヒアリングと一言に言っても、自分の聞きたい事や、こちらが作った価値観に沿って聞いていることばかりであることに気付かせて頂きました。
真実は自分の知りうるところ、陽動したところにはないのに、一生懸命聞いていたことに違和感を今は感じます。
信じ、受け止める事を大事にして行きたと思います。