物事はその人の捉え方次第でどうにでも解釈できるものです。
例えば今の時代は、比較競争の中でのモノサシで判断することが多いですから誰かと比べてどうだとか、何かよりはどうだとか、常にそのモノサシは世間で評価される刷り込みの中で認識するものです。
自分というものがどうしたいのか、自分がどうありたいのかということを考えていても自分を誰かに必死に説明するために生きている人の方が多いようにも思います。
自分のことを分かってもらいたいと思うのが人間ですから、自分のことを伝えたいという思いは強いのでしょうが本来、その人が何かということについてはあまり語られることはありません。
その人そのものの価値を正しく自己認識している人は少なく、自分の価値がどうであるのかは誰かの価値基準にあわせて納得し理解していたりするものです。
本来の存在は全てにかけがえのないものだといくら頭で認識していても、それは何かを遣ったらとか、何か特別な能力があったらとか、結果を出したらとか、そのような大前提がまず存在しているように思います。
私はそういうときはよく花を思います。それはどんな花があったにせよその花は丸ごとでその花だからいいということ。
存在を丸ごと認めることができるというのは、自分を遣り切るからだと思います。遣り切る生き方というのは、自分の存在を丸ごとでいのちを遣い切っているほどに自分の全部で生きてみようと決めた時からスタートするようにも思います。
自分の全部でという思想。
ここに、智・仁・勇を兼ね備えた一己の人格があるように思います。
そうやって全部を出し切って生きることができ、死ぬことができればこれ幸いだと思います。
そうしていくことが自然の貢献であろうとも思います。
日々を楽みきっていこうと思います。
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「人の存在」というのは、そのままで尊いものだと思います。しかし、「その人がどんな人間であるか」ということは、その人が実践してみせるまでは、誰にもわかりません。同じように、「自分はどんな人間であるか」ということも、自分で実践してみるまでは、自分自身でさえわからないものです。誰かのために「最高の自己を差し出そう」という生き方をしない限り、自分の本当の価値もわからないのかもしれません。
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同じ言葉を聞いても人によって感じ方や意味の拾い方が異なり、振り返る時間の大切さを改めて感じています。言っていたことを文字通りに拾うのではなく、何が本当は問題なのか考える時間こそが自分を遣っていくことなのだと感じています。これまでと今日の言動を見比べ気づいた点から修正していきたいと思います。
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自分の中にある感性が、今目の前の出来事を誰が何と言おうと、よくがんばった!そして次はもう一歩だな!よくがんばった!と言ってくれる生き方をしているのか。本心は嘘をつきません。
頭でそうやって納得する事は出来ますが、心と対話する覚悟で、日々を歩みたいと思います。