日本の偉大な教育者の一人に東井義雄さんがいます。「いのちの教育」といって、子どもたちのいのちを輝かせようと生涯を取り組んだ方です。
その日記や詩には、自分の生死に向き合いながらいのちを輝かせようという生き方が観え、その真摯な姿には感動します。
私の知人にも、東井先生によく似た方が居て謙虚に遜り、いのちを大切に生きている方がいます。そう考えてみると、いのちを大切にしていくというのはそのものの有難さや勿体なさ、その尊さを常に実感している生き方であるように思います。
その東井義雄先生の教育方針として書かれたものに下記があります。
「どの子も子どもは星
どの子も子どもは星
みんなそれぞれがそれぞれの光をいただいて
まばたきしている
ぼくの光を見てくださいとまばたきしている
わたしの光も見てくださいとまばたきしている
光を見てやろう
まばたきに 応えてやろう
光を見てもらえないと子どもの星は光を消す
まばたきをやめる
まばたきをやめてしまおうとしはじめている星はないか
光を消してしまおうとしている星はないか
光を見てやろう
まばたきに応えてやろう
そして
やんちゃ者からはやんちゃ者の光
おとなしい子からはおとなしい子の光
気のはやい子からは気のはやい子の光
ゆっくりやさんからはゆっくりやさんの光
男の子からは男の子の光
女の子からは女の子の光
天いっぱいに
子どもの星を
かがやかせよう 」
これはまばたきというものが、まばゆいに変えるとより今の時代は理解しやすいと思います。そして光とはいのちそのものの存在の個性のことを言うのだと私は解釈しています。
子どもたちのまばゆいばかりの個性をいのちとし、それを見守ろう、正対していこうとするその真摯な教育の姿に感動します。先生の時代も、個性が埋没し、物質的な豊かさと裏腹に、本来の人間の持つ偉大なものは消失していった時代だったのだと思います。
その中でも、もっと子どもを引きだしていこう、大人が子どもの成長を邪魔をしないでいこうとして自らを常に戒めて優しく謙虚に生き切った姿に私たちが目指している教育者像がシンクロします。
子どものいのちを輝かせていくというのは、自らのいのちも輝かせていくことに他なりません。そしてそれが仏の教えそのものの意味と通じているからのように私には思うのです。
仏の教えの中には、そのものの中に仏がいると説きます。
その仏とは私たちの個性に他なりません。
それをどのように引き出すかは、自分の個性を引き出していけばいいのです。しかしそれには、周りに負けない信念の強さ、そして世界を自分の観ているような世界にするという絶対積極の主体性がいるように思うのです。
子どもたちが、今のようなものがあふれた時代であっても大切なものを出したままにしていくために、私も子ども第一主義にいのちを賭していきたいと思います。
コメント
自分たちの存在を支えるのは「自尊心」ではないかと思います。この「自尊心」が欠けていると、自他の個存在とその個性を尊重することはできません。単なる「違い」ではなく、「豊かさ」そのものであるすべての個性を存分に愛し、生かし、輝かせるために、この「自尊の心」を常に高めておきたいと思っています。
コメント
数頭いる中でも実践し続けている人のことを先生と呼ぶように感じました。職業の一つしてではなく、自分自身を戒め実践を続ける大切さは今も昔も変わらない姿勢なのだと思います。周りを見てやるかどうかを決めるよりも、目指すべき像から今の自分自身を見つけていきたいと思います。
コメント
世の中や、日本、社会、周りの人々。
見回した中で、見守る姿勢を維持出来ていても、
自分の子ども達にはそうでない瞬間があるなぁと
感じます。しかし、それ以上に、妻には難しく、それ以上に、自分には難しく感じます。
まだまだ、らしさを発揮するには、妻を信じ、自分を見守って下さっている方々が居る事実を信じて行きたと思います。