先日、卵を温めていた烏骨鶏に雛が誕生しました。
もともと人工飼育したものは温めないものが交配されているので、難しいと言われていましたがそんなことはなく雌鳥が協力して交代で皆で卵を守り温める姿には感動しました。
その協力の仕方も大変興味深く、卵の上に重なり合うように寄り添っては、位置を変えたり移動したりと定期的に卵を持ち合う関係が交互に入れ替わり、また上手に転がしながら日夜温める姿に本能が対話する様子を実感しました。
また、残念なことに一羽はイタチかテンのようなものに襲われいのちを失ってしまいました。卵の誕生に近づくにつれて、周囲の動物たちも集まってきましたからそれぞれ野生ではどのタイミングで襲ってくるのかも知っているかのように思います。
自然界というものは、御互いに生き生かされ、そして死に活かされというように無常に循環しているものです。人間中心の価値観で物事を見ていると残酷に観えますが、本来は自然界から観てみたらそれは残酷ではなく互いに生きるということに真摯であるだけなのです。
私たちは本来、どのような本能を持って生まれてきたのかといえば自然と同じように生きるために必死で自分の内なる力を光り輝かせて生き抜いてきたのです。一生懸命に生きているものは、そのどれもが野性味あふれ、自然美を放ち、そのものの個性も光り輝きます。
物が溢れ、便利になり、すべての安心に囲まれてしまうと、その最も大切な生きるという一生懸命から遠ざかってしまっているかもしれません。食べることも、育てることも、それはすべて命懸けであるはずだったのです。
最近、ゆとり教育がどうだとか、頑張るとか頑張らないとかよく議論されることがありますが本来はそうではなく真摯に生き切ること、日々に死に切ることこそがいのちを活かすことかもしれません。この場合の死に切るというは、今に全身全霊を傾けて遣り切るということです。
雛が孵って見ると、子どもはどの子も可愛いもので生きる姿そのものに感動します。
誕生するということは、本来は私たちがこれからはじまる生死の間で繰り広げられるいのちの輝きを戴いた瞬間ということかもしれません。あの星空の星たちのように、それぞれの光を真摯に放ちながらその一生そのものを尊重してあげたいと思います。
いのちには教えられてばかりです、有難うございます。
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「死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし」と松陰先生はおっしゃいました。しかし、現実の日々は、そこまで真剣に生き切れていません。「生死」から離れてしまっています。そこが、毎日の迫力不足になっているようです。
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卵が産まれるだけでも驚きでしたが、孵るとは思っておらず初めて見た時から時間が経ち大きく育っていることを感じます。環境を用意することで自然界のいのちの攻防行われる一方、自分自身の身を置く環境によってはいくらでも楽な方へと求めることのできると感じています。環境によって考えていなかったことが起こるように、自らの思い込みが外れる行動が必要なのだと感じています。
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二十日以上、孵るまで温め続けた親鶏の姿は
気迫だけでなく、仕事に対する姿勢やその他に
ついても学びが多くあります。
本気の継続は、とはいえのない世界に辿り着く
為の基本姿勢として捉え、日々をやり切りたいと思います。