ドイツに来て2日目になりますが、子どもの姿はどこでも普遍的で様々な運命に生まれてくる子どもがいますが自然の愛を一杯に感じて生きようとしているように思います。
今回はテーマを人間愛にしたので、なかなか現実の視察とは話をつなげていくことが難しいのですが新たな視点から東西の垣根を超えて物事の共通点を観察しています。
もともと人間というものは、生まれる前から自然の中にある愛のようなものを実感しているように思います。例えば、生まれてきたらすぐに親を頼るように、また自分は生きていいと信じているように、この世に出てくる瞬間から私たちは信じるという活力の中で生きています。
これは動植物でも同じですが、種から芽が出るのもそれは本来いのちというものはこの世の中で自分が助けてもらえるという存在、そして誰かを助ける存在であることを無意識に知覚しているように思うのです。
先日、子猫や雛が生まれましたがどのいのちの子どもたちも如何に世界を信じて安心し、その心姿の顕われとして「遊ぶ」その様子を観た時、活きるという信じる力、その行為は全て遊びの中に詰まっているのを実感したのです。
この遊びというものは、自然の愛を表現している人間愛の姿でもあり、遊びを通じて私たちは心の安らぎというものを実感し、生きている歓び、活きられる幸せを確かめていくように思います。
これは大人になろうがなるまえが、皆が楽しく一緒に遊ぶ姿の中にはどこか昔から信じていたはずだった愛を確認していることに似ていると私は思うのです。私がアクティビティを行う理由もまた、遊ぶ中に信を思い出し、その信の表明を全員で確認するために用いるのです。
人間というものは、何をもって遊びだと定義するかは安心した時に自然に湧き上がってくるいのちへの友愛の情、万物全てが一緒に遊んでいいとした存在の妙義に気づくときに愛を確かめるのかもしれません。
そういう遊びの中でつながっている自然の愛との邂逅が、私たちに人間愛とは何かを教えてくれるのかもしれません。子どもは、いつも心が遊んでいるのはいつも内なる自然の愛に応えていこうとした働きがあるからのように思います。
最後にガンジーの言葉です。
「人類が絶えず愛の法則と共にあったかなど、私は知らない。
だが、そんなものは私の障害とはならない。
愛の法則はまるで重力の法則のようなものである。
我々が認めるかどうかなどは関係ない。
愛の法則を真に知る者は、今日の如何なる科学者よりも偉大な学者である。
多くは十分なる探求がなされぬ故に、あらゆるものに愛の法則が働くことを理解できないだけなのだ。」
あって当たり前のものこそ、観えなくなっているように思います。ドイツにいても日本にいても、私たちはお互いの中にある尊敬を見出していく必要を感じます。自分の思い込みを超えて、子どもの姿からまた引き続き愛を学んでいこうと思います。
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「遊び」という言葉には、「精神の自由」や「幸福への道」という意味が含まれていると聞いたことがあります。良寛さんが子ども達のなかに見た仏の心も、そういうものだったのではないでしょうか。「とらわれ」から解放される自由を求めるのではなく、「とらわれ」る以前の自由の世界を思い出さないといけないのでしょう。
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子ども心と聴くと幼稚に聞こえてしまう事もありますが、子どもから学ぶ事の多さを感じます。
大人心と聴いてもあまりよいイメージもありません。見守るほいくを実践している園の皆さんが子どもから学んでいますと仰ること、また私も子育てで同じく子どもから学んでいることを思うと人は年を重ねながら、子どもよりも幼稚になる部分もあるのだと思います。素直な学ぶ心を大切にして行きたいと思います。
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各国の環境を取り入れていくのも、何の気なしに取り入れるのではなく哲学があってこそのものなのだと、先生方が子どもたちの声を反映しているところから感じました。他を受け入れ自分の文化に合わせていくのも、自らの声で発信し対話が生まれるからなのかもしれません。話すことではなく、伝えることが学びのように感じています。