ドイツに来て3日目が過ぎました。
昨日も、子どもたちの発達から活動を工夫する様々なアイデアを現場で確認することができました。子どもたちがやりたいことを邪魔しないというのは、子どもを信じ、子どもが育とうとすることを受容することにつながっています。
人は自分がやりたいと思うことを認めてくれることほど信じられているという実感を持てることはないようにも思います。私も今でも、誰が何と言おうとも自分の内面の直観の声に従い、それが後で意味があったと実感するとき偉大な見守りをいつも感じています。
信じるということは、その人の遣りたいこと、その使命を丸ごと認めることだと思います。世界を変える道もまた、子どもを信じるところにあるのです。
さて、サブテーマの人間愛もいよいよ深まってきました。
人間は愛を試されるとき、そこには自分がされたくないことを他人にしたときに実感したりするものです。もしくは自分がされたいことをされたいこと以上にしてくれる人と出会ったときにも感動し実感できるように思います。
そうして愛を確かめては、何を愛し、何を守るかということを学んでいくのです。人は自分の大切にしているものをそれぞれ持っています。特にそれは物だけではなく、その心にもこれだけは守りたいと思っているものがあるのです。
それが例えば、友の道であったり、親子の道、家族の道、つまりは連綿と受け継いできた美しい心の顕われの行為になるのかもしれません。子どもはそれを誰が教えなくても自然に身に着けていて、自分たちの大切にしたいことがあれば何よりもそれを優先し守ろうとします。
大人になって、それができなくなるのは社会や周辺の大人の影響を受けて守りたいことを諦めるからかもしれません。そういうものを諦めない大人たちが子どもたちを守ることができるとき、愛は受け継がれていくのかもしれません。
私の師も、平常は優しい懐の大きな存在ですが背中の後ろに守りたいものがあるとき不動明王のように烈火の如き炎で立ちはだかり子どもたちを守ります。私はそこも大変尊敬していて、憧れ、いつの日か自分も守りたいものを守れる真の強さを持ちたいと思ったのです。
愛とは、つまり守りたいもののことを言うのかもしれません。
ガンジーにこういう言葉が残っています。
「死と引き換えに、愛する誰かを守った人は、完全なる愛を成就した人だ」
自分よりも大切なものがあるという至上の役割がある幸せ、そこには決して揺るがない信念とつながりが自分を守る。そのために自分をこれ以上なく遣り切り実践し尽くした生涯を送れるならその人は愛に包まれた最上の人生を歩んだといっていいかもしれません。
人間の世に生まれ愛を知ることは、自分が大切にしてきた守るものを知る事なのでしょう。
日々は愛の中にあることを知り、より強く愛していきたいと思います。
コメント
愛されていないという不安や不満よりも、気にせず護りたいものがあるかどうか。愛を自分に求めても見つからず、愛すれば自分の中に愛が見つかるのだと感じました。愛にあふれる人は、周りや条件を気にせず振舞っています。子どもも同じなのだと気づきました。目の前の子ども達から学んで行きたいと思います。
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自分が子どもだったらこれをやりたいと感じることがあり、工夫して更に見出していく環境があることに自分も子どもたちにそういった環境を用意したいと感じています。子どもたちがどのような表情や姿が見られるのだろう、用意していく過程で子どものことを思い浮かべ考えていくことが役割なのかもしれないと感じました。全体をしっかりと見つめられる力をつけていきたいと思います。
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「愛」の試しとは、「どれくらい本気で愛しているか」ということでしょう。それは、言葉ではなく、態度で示さなければわからないものです。「不惜身命」「命を懸けて護る」という生き方が、果たしてどこまでできるか?!まだまだ、愛を語る資格がないかもしれません。