ドイツ視察研修の5日目になりました。
これで続けて訪問して3年目になりますが、藤森先生の変わらぬ姿に改めて学び直すことばかりです。参加者への思いやりはまったくブレず、そして社会や世の中の変化に対しては柔軟に変化し続けるということ。
不易と流行というものは、どちらも思いやりがあれば順応できるものだと、保育の初心を実感することができました。その見守りの姿勢に、発達を助長するのではなく、発達を援助するのではなく、発達を保つという全く異なる次元からの目線、これを保育であると定義していること。
この保つという字には、どこか見守るという意味が深くその字に籠められている気がします。どれだけ純粋に学べるかというのは、自分を謙虚に磨き上げていく学問の楽しさを知っている人であろうと思います。
一つの単語の行間にあるその哲学を、東西の垣根を超えて学び直しています。
さて、人間愛がテーマでいよいよ終盤に入りました。
人間は、一人で生きているのならば自分の価値観の中だけで世界を観て世界がそういうものだと思い込んでいることもできるものです。しかし、それでは世界にはもっと美しいものがあったり、もっと楽しいものがあること、そういう真の豊かさに気づけないで道が途絶えてしまうような感覚を持つこともあるかもしれません。
信じてきたものが何か自分の中にある先入観によって得られないという感覚に似ているように思います。そういう時、その自分の知らなかった世界を持つ人を直観的に感じ取ることができるのもまた愛だろうと思うのです。
例えば、真実を知ろうとすれば自分に都合の悪いことがあるかもしれません。もしかすると、自分を変えたくないと思っている壁が立ちはだかるかもしれません。しかし、それでもそれを乗り越えた先に大きなものがあると信じるのが好奇心であろうと思います。
つまり愛とは一人で完結するものではなく、二人以上の人達によってはじめて完熟していくように思うのです。つながりや結びつきの間にあるものが愛であり、その愛のカタチを御互いに円熟させていくために他人は愛し合うように思うのです。
まるで円い中で失った欠片を探し当てていくように異なりを求めあい、多くの人達との出逢いのご縁を通じて愛の色を渾然と染めていくかのようにです。
お互いの大切なもの、大事にしていきたいものが一つではなく二つ以上ある絆の場所に愛は存在しているのかもしれません、自分の過去を振り返ってみても、愛を教えてもらったのはみんなお互いの大切なことを交換しあって絆した結び目にあるように思えます。
縁と愛とは、人間が出会う中のことであります。
出会いを大切に、一日一日を過ごしていくことこそが愛に触れていくことなのでしょう。
出会いの中に偉大な愛はいつも生きています。
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人は、出逢いを通して「お互いの個性」を知り、その縁に気づいて「永いつながり」を感じ、そして、お互いの存在を受け入れあったとき「自他一体」のきっかけをつかむのではないでしょうか。本来ひとつのものが、分かれて、またひとつになる。元々ひとつであったことを思い出すために、人と人との間には「愛」が生まれるのではないでしょうか。
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今感じていることが数年後どのように感じるのだろうと、実践の身につき度合いで変わってくるのだろうと思うと、相手のためか・自分のための実践かで分かれるのだろうと感じます。一人では交換が出来ないからこそ、誰かと一緒に声を掛け合いより善いもの求めていくのだと思います。生き方が現れる一つひとつの出逢いに学び、人との間で実践を深めていきたいと思います。
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助長でもなく、援助でもなく、保つという表現に発達を邪魔しないと言うことの意味を感じます。助長も援助も何かをすることが前提ですが、保つには、何もしなくて良い自然を求める意味を感じます。とても印象深く、大事な事だと感じます。日々の仕事、子育てで実践し深めてみたいと思います。