自然農に取り組む中で、ある不思議な法則を発見しました。
もともと自然はそのままにするのですが、人が蒔いたものや人に触れたもの、人が必要としたものにはその人の絶えない関心と応援が必要となるということです。
自然界に育つ作物は、人との関わりがあろうがなかろうが自由に野生化した中で生きています。野生化した中でそのまま育っているものは人間が関わらなくても自然の愛を享受し生きているのです。
しかし人間がひとたび関わってしまうと、そこに本来のそのもののいのちの循環の中に人間が入り込んでしまうのです。もともと人間との関わりがなかったものが、人間と関われば、人間との関わりを通して強くも、また弱くもなってしまうのです。
例えば、野生の花を切り、生けたとしてもそこには小まめな水替えや関心がなければあっという間に腐ってしまいます。また、作物も蒔いたり植えたりしたとしてもそこに見に行き負けないように支えなければ同じく天候や虫、雑草に負けて枯れてしまいます。また、野生の子猫を拾ってきても、人とのつながりができたらいつも気にかけ育てていかないと弱って病気になってしまいます。
このように人間と関わるということは、人間との関係が必要になるということです。
つまり関係を結びということは愛を結びことであり、ひとたび愛を結んでしまえばそのものはその愛の影響をとても大きく受けてしまうということです。
この時の愛の定義とは、関係のことであり、ひとたび関係を持てばその関係の中で愛が強くもなり弱くもなるということです。愛が弱くなればそのものの生きる力も弱くなり、愛が強くなればそのものの生きる力も強くなるのです。揺るがないほどになれば、そこに愛を疑わない境地に入るのかもしれません。
そのために絶えず見守るということは、常にそのものの持つ完全体を信じることと同時にそのものを丸ごと自分を捧げて応援するという関係を結ぶのです。
言い換えれば、愛を循環させていかなければ育ち合えないのです。
気づきませんでしたが、全ての関わりあうものたちはお互いを常に見続けると同時に応援し合っていたのです。それが関係を結ぶということであることに、人生ではじめてはっきりと気づくことができました。
ただ分かったからといってここから技術に昇華したわけではありません。
揺るがない愛とはどういうものは、身近な自然から学び直したいと思います。
コメント
親子や夫婦であっても、「どういう関係で生きるか」ということを意識せずに付き合っていると、現象に振り回され、確かなはずの愛に不信が生じたり、無責任になったりすることがあります。そういう意味では人間同士だけでなく、あらゆるものと「関係を結んで生きる」という付き合い方ができていないことが多いのではないでしょうか。
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思春期の頃は親から距離をとり離れますが、感情とは裏腹に今思えば何かを確かめようとしていたのかもしれません。思春期の時期や両親に対してだけでなく、一定の距離を保ちたいと感じるのには、手が加わりすぎ安心して不自然なほどそこに浸ってしまったと気づいたからなのだと思います。浸るから結ぶへ行動を見直していきたいと思います。
コメント
与えるものは与えられる。
この法則に出会ってからの自分はどこか、
心にゆとりと少しの自信をいただけているという実感があります。
夫婦も仲間もクルーもお客様も、自分が奪う関係になっていないかをいつも考えながら
自分が今お渡しできることを全てお渡しして行きたいと思います。