頭でっかちの落とし穴

何かを弘める際に、それが行われるかどうかは実践するかどうかによります。

そしてこの実践というものは、よく勘違いされていますが頭でっかちにやることが実践のように語られてマンネリ化していることも多いのです。そこには三つの落とし穴があるように思います。

一つ目は、何のためにやるのかということを考えなくなることです。実践には心が伴っていなければ実践とはいいません。何のためにと考えず、やらされたりやらなければと闇雲にやることばかりに囚われてしまうと業務のようになってしまうのです。常に本質的に取り組んでいるかどうかは、決心した場所から常に離れないで行うことができるかということが大事になります。

そして二つ目は、身体を動かさないことです。頭は、いつも楽をしようとばかり考えているものです。いつもやりながら他の方法論を探したり、便利で簡単にできるようにと思っています。すると、やってもいないのにやっているという感覚になり現実が麻痺してしまうのです。身体を動かすとは、具体的に手間暇をかけてでも面倒でも一つ一つのことに身体を使って行動することです。そうしないと、思っていますややっていますといくら感情的に訴えてもその実は何も変わっていないことになるからです。メンドクサイと言われるような時に行うことで身体は動きます。

三つ目は、言葉を大切にしないことです。言ったことを遣るということは、大変難しいことです。特に言った通りに行うというのは何よりも難しいことです。自分の言葉に責任を持つというのは、維持継続して遣り遂げるということを意味します。自分で言っておきながらそれを大事にしないから言葉で伝わらなくなるのです。伝わらない言葉というものは、全てを形骸化させ物事を便宜的にしてしまうからです。それに言葉にしていくということは、上記の二つをやっているから真の学問に通じ、それを伝えるための自分の言葉にしていくことができるのです。

このように実践というものは、実践と思っていても思い違いをしていて頭でっかちという名の罠があらゆるところに仕掛けられるのです。頭とのバランスというか、想像したものを行動に換えて習慣にしていくことで実践と呼べるものになるのです。

日々に実践をするというのは、心、身体、そして言葉というものをフル稼働すること。つまりは決めたことを決めたままに行うこと。言い換えれば自分が分かった気にならないように真摯に真心を籠めて飽きずに倦まずに丁寧に以上の三つを気にかけて知行合一に取り組んでいくことのように思います。

方法論ばかりや選択論ばかりが広がるのは、実践をしないからでしょう。保育業界も教育業界も、楽な方ばかりで語られ保育の質や子どもの人権などは御座なりになってしまっているようにも思います。これも先に教え込まれて勉強をしてきた過去の刷り込みが存分に残っているのかもしれません。

本来の使命感として、理念がどうなっているのか。その理念に対してそれぞれが実践していけば自ずから協働し世の中も思いやりのある温かい社会に換えていけるように思います。そういう生き方や働き方を示すことはそれだけ志が世を憂うからです。

自分ひとりの実践が、周りの実践を弘めることになると信じています。世間の頭でっかちに揺さぶられないように改めて実践を強めていきたいと思います。

  1. コメント

    習慣化して行動が身に付き始めたと思うことも、すぐに結果として現れないことが実践なのだと感じられるようになりました。これまでいかに目に見える形での評価をされ、そこに満足していたのだと感じています。それとも未だ実践と思っていることも落とし穴にはまっているからなのかもしれません。改めて気持ちを引き締め取り組んでいきたいと思います。

  2. コメント

    松下幸之助さんは、頭の中だけで理解しているつもりの相手には、「腹に入る」まで、理念を繰り返し伝えたと言います。「腹でわかる」には、「教えてもらうという学び方」ではなく、理念の実践を通して「自ら会得するという生き方」に切り替え、日々積み重ねてつかんでいくしかありません。「わかった気になっているもの」へ再挑戦したいと思います。

  3. コメント

    どうしよう、どうしようと考えても解決できそうな手段ばかりを探してしまいますが、それではまた同じ事がいつか起きるのだと思います。手段ばかりを気にする事をやめ、目的を考えて、そのために自分の在り方を変えて行く事を実践として捉えて大切にして行きたいと思います。

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