共異共感

先日、ドイツでの視察に行った際にある保育施設でハンディを持つ人たちの立場に共感するために車いすの体験や、歩行具の体験、生活の中で自分たちと異なる人たちの気持ちに寄り添うような工夫をしているのを拝見しました。

私は、軽度発達障がいの子どもがいて当たり前という人の偏りを肯定するためのソフトを開発しましたがその際にも大前提は自分と異なる人のことを否定せずに、分からないのだから歩み寄って理解しあおうという考えに即して創りました。

人は何を持ってハンディかというと、人間がそれぞれ求める幸せを何かの柵や刷り込みで実現できないことです。本来は、どんなハンディがあっても人間は人間らしく誰しもが平等に生きる権利があるのです。それを最初から諦めてしまったら、それこそが歪んだ概念でその人のことを違うのだからと仕分けてしまうのです。

集団を優先し、経済を優先し、世間一般の数の論理で管理していく社会を優先していけば、そうではない人たちはとても大きな障壁ばかりを乗り越えながら歩まなければなりません。強いものが弱いものを思いやる、そして弱いものがあるから強いものが優しくなれるような社会にしていくことが本来の福祉の醍醐味ではないかとも思います。

人は共感して、自分と異なる存在であると理解するときはじめて違いを超えた存在に思いやりが持てるようになると思います。自分と同じだということを思い込んでしまえばいつまでも自分に合わせようとさせるばかりで共感することが難しいからです。

あのアインシュタインに、「誰もが天才なのに、魚を木登りで評価したら、魚はバカだと思い込んで一生を過ごすことになる。」という名言も残っていますがこれもそれぞれがそれぞれに持ち味がありそれを活かすことができれば天才だということです。

違いと異なるでは意味が変わります。

違いは自分との違いや何か基準を設けた違いだけを評価するのに対して、異なるというのはそのものを全肯定全受容しそのものの価値を丸ごと評価しているのです。

異なることは善いことで、異なりがあるというのはそれだけ多様な人たちの役割が必要になりみんなが幸せに活きられるチャンスを得られるとうことだからです。均一で画一な集団では、自分の役割まで競わなくてはなりませんし蹴落とさなくてはなりません。しかし互いに思いやれる優しい集団をめざせばハンディというのは周りを幸せにするように思います。

今のような時代、風穴をあけるのはこのハンディへの共異共感かもしれません。
常に人間として大切なものを見失わないように、新たな実践をはじめたいと思います。

  1. コメント

    「本来、同じはずなのに違っている」と見るか、「最初から、持ち味は異なっている」と考えるか、その前提によって豊かさは変わるでしょう。これは、外見や能力的なことだけではなく、「関心」や「考え方」にも言えます。「代わりはいくらでもいる、誰でもいい」という世界は決して豊かではありません。お互いがそれぞれ独自の個性や持ち味を尊重し合い、生かし合える世界こそ、無限の可能性があるのではないでしょうか。

  2. コメント

    小さいころ異なることを体験的に学ぶと、大きくなってから日活きてくると思います。小さいころの私自身が置かれた環境がそうだったからかもしれませんが、異なることで何をするべきかを考えていたのかもしれません。思い浮かぶわずかなことからでも相手を思う気持ちを大切にし行動していきたいと思います。

  3. コメント

    自分らしさを振り返ると自分がやりたいことよりも自分の事を周りが言ってくれた事がそれに当たると感じます。無理にやっていると周りは気づきますね。周りに迷惑をかける時期もありましたが、大切なのは本気か見せかけかということだと思います。
    それは、自分の生活そのもの、今の行いそのものを見れば必ず移されるものだと感じます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です