人は夢を持っています。
自分がこうなりたいとかこうしたいとか、夢は膨らんでいくものです。実際の人生では、自分の思っていることよりも思っていた以上のことが起きて夢を諦めないで善かったと思うことが本来の夢そのものであるのかもしれません。
叶ってしまうような夢ならば夢ではないというのは、夢とは追い求めていくときこそが夢であり夢を持つというのは全ての今は夢の途上であると向かうことに意味を見出しているときだからです。
先日、夢についてイエローハットの鍵山氏と伊那食品工業の塚越氏の対談の著書「幸福への原点回帰」(文屋)にてとても共感し感銘を受けた文章があります。夢を追い求める人達へのエールになると実感しました。ここにはこう書かれています。
「どんな人でも、成長の過程で、何らかの夢をもつと思います。しかし、多くの場合、この夢が途中でなくなってしまうようです。これは、夢が逃げ出していったわけではありません。自分が夢から逃げ出したということです。これはとても残念なことです。夢に向かって重ねていく努力というのは、なかなか「これだ」と成果を確認することができません。簡単に成果を手にすることができるなら、おそらく多くの人が努力をし続けると思いますが、どれだけ努力を重ねても、近づいている実感がもてないものです。やがて、その努力を続けることがむなしくなり、はかないと思うようになります。そこでいやになり、もうやめてしまおうかと考えはじめてしまったら、それは自分が夢から逃げているということです。」
夢というものは、逃げないことで夢に向かうという意味なのでしょう。そしてこう続きます。
「私が会社で掃除を始めてからも、長年の間には、むなしい気持ち、はかない気持ちに襲われたことが数えきれないほどありました。一貫して希望に燃えていたわけではなかったのです。ほんとうにいやになり、やめてしまおうかと思ったこともあります。しかし、やめませんでした。「もうやめようか」という考えが湧くたびに、私は同じ結論にたどり着きました。それは、「昨日までの努力は、捨てるには惜しい努力であった」ということです。よしんば、昨日までの自分の努力が、いつ捨てても惜しくないものであれば、あっさりと投げ出したかもしれません。しかし、ここでやめてしまったら、昨日までの努力が無駄になると思ったとき、ふたたび心が奮い立ち、努力を続けることができました。」
そして鍵山氏は、若い人に「捨てるには惜しい努力、自分自身で納得できる努力をしていっていただきたいと思います」とエールを送っています。
この著書は素晴らしい名著で、今の時代の真摯に生き切ろうとする経営者の人達のバイブルになるものであろうと思います。
夢を持つというのは、向かい続けるということ、向き合い続けるということです。それでも逃げずに向き合っているならば、必ず夢は向こうから顕われてくるものだと私は思います。
信じるということは、今の自分が夢に向かっていると納得できるほどの努力をしていることだと思います。それまでやってきたことが、捨てるには惜しい努力であるか、そこに今を生きるという夢の本質があるからです。
何も手に入らなくても、この瞬間、生きている実感、感謝しかないと覚える今が夢そのものの真の価値なのかもしれません。そして人生の夢とは素晴らしい記憶に包まれている今に酔いしれて、味わい噛み締めているようなものです。この瞬間が儚いからこそ、永遠に感じるからこそ、いつまでも諦めないで続けていこうと思います。
未熟でガキで我儘なこんな自分を、耐え忍びて志に転じることで芯の強さに換えながら自らを磨き抜き、その本懐を遣り切りたいと誓います。
コメント
「夢」とは、心のうずきをヒントに描くものであり、その「夢を描き続けることができる」ということ自体が、「その人らしい夢である証拠」と言えるでしょう。そういう貴重な「夢」だからこそ、簡単に諦めてしまう訳にはいきません。「それは夢だから」と言って逃げないで、とことん納得できる努力を積み重ねていきたいものです。
コメント
何か起こるたびに心掛けはしますが、また少しするといつもの通りになっていることがあります。夢についても「やっておけばよかった」と後悔をすることになるのなら、何が起きてでもと受け入れると決めきることなのだと感じています。人にエールが送れるほど自分自身も夢に向かい続けまた一つ行動していきたいと思います。
コメント
夢を思った時、例えばマッキンリーやエベレストに登りたいという夢も、登るだけなら今でもチャレンジできますし、登れると感じます。しかし、登れば夢は消えゆくものです。いってみたい、やってみたいのは、何の為か、どんな自分になる為なのか、実際は成りたい自分を夢みた中の一つの手段でしか無いことに気付きました。今の積み重ね、日々の実践の延長に夢を置いて歩んで行きたいと思います。