心の訓練

心の訓練というものを考えてみます。

心というのは形がありませんから、どこにあるのだろうかと思われるものです。自分の心、自分の感情、真底から丸ごとの自分とは何かということを知らない人の方が多いと思うのです。

日常で心が摩耗していくとき、その本心がどこにあるのかがふと自分でも分からなくなるということは往々にして起きる事のように思います。私自身もいちど心が迷い、ざわつき、執らわれてしまうと、自分のことが分からなくなってしまいます。

そしてそのように自分が分からなくなれば、真心も分からなくなるのです。そんな時、私は他人の御役に立てるように真摯に自分の誠を尽くして本来の自分を取り戻します。

かんながらの道を歩む中で気づいたことがあります。

この真心というものは、あるがままの心でいるときに顕現しているということ。
そしてそれは、本心のままに生きている自分のままでいるということでもあろうと思います。
生まれたての赤ちゃんの素直な姿でいつまでもいるようなものです。

時折、素直な姿に心が洗われるようなときも心は澄み渡っていきます。
人の本心や本音こそが禊になり穢れを払っていくのです。

また同様に真心は、感謝のときにこそ顕われます。

つまりは、至誠神の如しと言われるように「まこと」の姿そのものが自然なのです。

心とは何か、「心の本体は感謝」なのです。

自然でいるということは、常に心を澄ましていることが必要です。
自然体とは、感謝体になっているということです。

そしてそれは日々の感謝の実践によって得られるように今では確信しています。

人格を練磨することに時間をかけて日々に修養して良知を学び直してシンプルにしていくことが人生の大目標なのかもしれません。ここでの良知とは、本来の全ての関わりと出来事に感謝し、澄み渡った感謝の情愛を自分の真底から引き出していくようなものです。

それに気づく機会は、いつも人間関係の中で得られています。

これからも諦めず、直向に心の訓練を実践し、生まれてきた世の中を生まれる前より清々しくしていけるように様々な出来事に正対し受け容れ、感謝に転じていきたいと思います。昨日も大きな学びがありました。まずは実践ありきで、何事にも子どものように素直に取り組んでいきたいと思います。

今日は七夕です。

「笹舟の 流れる河に 満ちてくる 心の音色 澄みやかにきす」 藍杜静海

真心を有難うございます。

  1. コメント

    「その人は、その人が思っている通りの人間であり、その人の考えている通りの人生を歩む」と言われます。そうであるなら、「心」は自分の一部というよりは、自分自身そのものであると言えるのではないでしょうか。その心を、愛と感謝と豊かさという、与えられた本質そのままに発揮するために、いかに「透明」にできるか。毎日が、汚れる自分自身との戦いです。

  2. コメント

    心の訓練は向き合うことで感じられるもので、そうでなければ自分には理解できないことだと思います。理解したというよりもその意味に触れたような感覚ですが、向きあい方が感謝の表れのようにも感じています。心を鍛える訓練は自分に厳しいものですが、人が教えて下さる一言ひと言に耳を傾け素直に伝えていきたいと思います。

  3. コメント

    心が求める事と心に求める事の対話の中で、心に求めるばかりだったり、心が求める事を傾聴せずに理解したりする事があります。自然からも自分からも外れて苦しまない様に、楽しく人生を歩める様に心との対話を深めて行きたいと思います。

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