素心と迷惑

自分へ誠意や真心を持っている人でなければ、他人への誠意や真心を持てるはずがない。自分を騙している時点で、他人へ誠実であるというのは嘘になるからだ。

故事にもある「我が身に偽りある者は人の誠を疑う」というように、いつも自分を偽っている人は本当の人の真心を受け取れる準備ができていないとも言える。

だからこそ、本質的に自他というのは同質であり隠すことも誤魔化すこともできない。浅く短く広く付き合うにはいいけれど、長く深く厚く付き合えば必ずわかることでもある。

そして自分に潔癖というのも、他人にもそうしたくないから潔癖なのであることが多い。

たとえば、ある人が馬鹿にされているのを見るととても嫌な気持になる。本人は良いのだろうけれど、自分はそれをしたくないと思うからそういう話には付き合わないようにする。すると「何か自分は特別で汚れたくないのか」などと絡まれることはあるけれど、そうではなくて自分への誠実な心を守るためにできないだけである。

自分を大事にするというのは、自分の心を偽らないということでありそれは素心でいつもいるということでもある。他人と本音で話し合えるというのは当然、自分自身の心とも本音で語り合えるということでもある。

他人との対話がうまくいかないのは、自分の感情を偽ったり、抑え込んだり、抑圧したり、逃避したりとしているからできていないということがほとんどでもある。

人間関係は、特に自分本位でしか考えない人では円滑にコミュニケーションをはかったりすることができずにいつも問題を起こし周囲に迷惑をかけることがある。何でも自分の殻に閉じこもった判断をすると、近視眼的になり、さらには視野狭窄になり必ず周囲に迷惑をかけてしまう。

福沢諭吉に下記がある。

「自由と我儘との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。」
「行為する者にとって、行為せざる者は最も過酷な批判者である。」

これは、エゴで我儘を通す際は必ず自分以外の誰かに迷惑をかけてその人たちの自由を妨げているからおこるということである。自由とは、全体を優先しそのために自分から進んで協力を惜しまないことでより思いやりと調和を築き上げるいくことをいう。

また下段は、みんなで決めていることを実行しているものたちにとって最も邪魔をし反抗をし批判的であるのはそういうことを破り、いつまでもみんなで決めたことも実行しない思いやりに欠けた人をいうという意味になる。

つまりは、こうなってしまうと周囲の忠告には耳を傾けず自分を責めることや自分ばかりや、自分がやるべきなどとを繰り返し、一向に周囲に心を開かなくなる。

それでは、どうしようもないのがこの「人間関係」なのであると私は思う。良き友人も、兄弟も、家族も、師弟も上司部下も、築き上げることができないのだ。

人は決して一人では生きていけない、多くの人たちが全部存在しているから自分がいることができる。自分にとって都合の良い人たちだけが必要でそうでない人たちは不必要ということでもない。

だからこそ、「人に迷惑をかけてはいけない」と祖父や祖母からもよく言われたようなことができないといけないのだ。これは本当に大事な言葉だ。

自分はどうせ迷惑ものだからとふてくされているけれどそれは間違いで、すべての人たちはみんな違ってみんないいのであり、「神様が創ったものに不必要なものは一つもない」とも言うように、万物すべてが必要だからこそ、とにかく「迷惑をかけないような人になりなさい」と愛情深く私たちを丸ごと包んでくれている存在を感じることができたのだと私は思う。

人は、子どものような素直な心、素の心のままに、自他に誠意がなければ周囲との関係がおかしくなってしまう。自分の心に誠実であれば素直でいられる、そしてそれだけをしっかりやっていたら周囲に自分に指摘をしてくれる優しい仲間や有難い恩師が現れいつも正しい方へと導いてくれる。

だからこそ、心はいつも素のままで清らかに澄ませているために自他を思いやり誠実に周囲へ心を開いたままにしていることだと私は思う。それは、他人に迷惑をかけないような人になりなさいという思いやりのある言葉で語り継がれていくようなもの。

今の時代は、間違った個人主義や画一教育の弊害もあるのでより苦しんでいる個人がたくさんいる。私たちは社業を通して今の時代の大人としての実践を大事にしていきたい。

カグヤでは、これからも子どものたちのために誠意や信頼の基盤を優先し変化を楽しんでいきたい。

  1. コメント

    ユニセフの先進国の子ども達を対象に行った調査では親や先生を尊敬しているかという問いに日本の子ども達が最下位という結果になっていましたが、まさに教育の弊害だと思います。
    尊敬に値する行為そのものを知らない子どもが他人を尊敬することはなく、自分を自虐し、他人を侮辱し、責任を転嫁する悪循環を生んでいるように思います。
    日本の過去の先人達には世界にも誇れる方々が沢山おられますが、その一人に学校にも銅像が置かれている二宮金次郎は日本の子ども達が学ぶべき先人にも関わらす、二宮金次郎の本質を伝えることはなく、本を読みながら歩くことは子どもがマネをし、ながら癖を助長させていると問題視し、今では背負っていたまきを下ろし切り株に座って本を読む金次郎像に変えている学校もあるそうですが、
    そもそも何のために金次郎像を措いているのかから疑問を感じます。
    人間学の学びの場を子ども達は必要としているのだと改めて考えさせられます。

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