今年始まった実践に有難うノートというものがあります。
その日その日の有難うという感謝を記していくのです。
よく考えてみるとすぐに理解できるのですが、人はひとりでに育ったわけでありません。多くの人達の見守り、そして誰かしら何かしらの御蔭で今まで生きてこられたとも言えます。
食べもの一つであっても、住環境一つでもあっても、そして生活できることでもそれは本当に数多くの恩恵の中で育てていただいてきたのです。
何でも自分の思い通りにいくことができることが権利としてあると思い違いをするような自分中心の考えに執らわれてしまうとこのような「当たり前」であることすら忘れて不平や不満、その他の自分の身の上の心配に執着してしまうものです。
感謝の本体とは何かと思えば、これは当たり前であることに気づいていることだと思います。
ノートを実践すればするほどに、書き記すことは何も特別ことを与えてくれたとか、夢が叶ったとか、奇跡が起きたとか特異だったことを書いているのではありません。むしろ、実は気づかないだけで身のまわりに存在している当たり前の出来事を当たり前ではないと感じた時のことばかりを書いているからです。
感謝の本体とは、この当たり前にしないという澄んだ本当の自分の顕現です。自我に囚われ、感情に心奪われ、日々の当たり前を当然だとし、傲慢になってくればそこに反省も内省も、そして進歩も成長もなくなるように思います。
謙虚さというものは、どれだけご縁に感謝し、日々の気づきに感動し、利他に生きる感激を味わうことかとも思えます。
もしもこの日が最期だとしたら、何をするだろうかと思う時、一番最初に気づけるのは身近な当たり前に気づきそこへ感謝の行動を示すことではないかと思うのです。そういう日々を当たり前にしていかない実践のその最中にこそ最善の人生があるように思えます。
つい受け身になると、逃げや不安、迷いや惑いに流されてしまいますがその時こそ感謝の本体を伴って道をひらいていく試練だと実感することだと思います。一度しかない人生を攻めるということは、二度とない今を大切に過ごしたという、生きていることに感謝できる今に全身全霊を傾けるということかもしれません。
できることというのは、実は遠くにあるのではなく、身近な小さな行為にどれだけ大きな真心を籠めたかというものによります。大切なものをすべて大切にしていくのは、大変な積極実践が求められますが怠らずに歩みたいと思います。
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私も一日を振りかって時に思い返すことは、身の回りで親切にして頂いたことが思い返されます。その時は取り留めもなく過ぎてしまったことも、思い返すと有難かったなと思うことがあります。思い起こせずそのまま忘れ過ぎてしまうこともあり、その時の自分の心境の現れこそが試練なのだと感じます。今後は、今日一日が周りの方に対して自分がどうだったから振り返っていきたいと思います。
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「私も、随分感謝できるようになった」と思っていました。しかし、あるとき、自分が感謝できることには「偏り」があるのではないか?!また、その程度の「深さ」では、本当に感謝したとは言えないのではないか?!と自分の慢心に気づかされたことがあります。結局は、感謝にも「自己中心的な自分」が現れているようです。まだまだ、「とらわれ」の中にいるのだと感じています。
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心から感謝できないなら感謝なんか感謝ではないと思っていましたが、感謝という事を学び、考え、頭で考えながらも感謝に気付く日々とそして細々と実践していく日々の中で、その積み重ねは決して偽物ではないと感じています。心がその行動や習慣に気付き、氷が解ける様に変わっていくことを感じます。まだまだ、自分自身、真心からの感謝だけではない部分もあるかと思いますが、
全ては真心に通じる為のことであり、自身の中で損得の感情をなくしていきたいと思います。