自然治癒の学び

病を得て、治癒を待ち、回復するのには長い時間がかかるものとそうではないものがあります。しかしほとんどがその病そのものの質によるものですか、相応の時間を要するものです。

どこかで何かが無理をすると、バランスが崩れて外部から病が入り込んできます。そうなると感染症に罹ったりすることで、様々な炎症が体内で発生して心身共に苦労することになります。

先月からの体調の不調も落ち着いてきましたが、するとすぐにまたいつものように求道して寝不足になりまたハードに働き向き合いはじめるところを鑑みると自分は元気な証拠だと懲りないことに驚くばかりです。ふり返れば少し体調が悪い時の方が、坦々と安全運転のようでいいのかもしれません。

今回の長い病の体験の中でまた得るものがあったのですが、治癒というのは常に内部から訪れてくるものです。それをじっと待つというのは大変なことです。例えば、外側では様々な出来事が次々に発生してきます。特に自分を捧げていこうとするならば、求められ応じるままに日々は忙しくなっていくものだからです。

しかしその出来事に心が着いてこなかったり、身体が着いてこなかったり、感情が伴わなかったりすると、そこから中心が乱れ治癒が働き難くなってきます。それを薬ですぐに治療だとしても、一時的にその身体や気持ちを整いますが副作用があるもので全体の治癒にはやはり掛かる時間は必ず掛かるのです。

長い時間をかけて治癒をしていると、ちょっとずつですが隅々まで回復していくのが自明で伝わってきます。動的と静的ではないですが、自然と同じく急な災害で何かが崩れても、それを時間をかけて回復していくかのように常に私達の姿も自然と同じように働き治癒も等しくできているものです。

しかし自然治癒をするのは待つだけのように思われますが大変な勇気と決断が必要です。病になればすぐに治さなければという常識を持つ私たち現代人は、すぐに治せる方法ばかりを試しているうちに自然治癒の邪魔をしてしまうことがあるように思います。治ったとか治らないとかあまり考えていると、感情の起伏にまいってしまいます。

そうして急いで修理をしてしまうと、後後で面倒なことにもなります。例えば私の地元の神社が、水害で水路が崩れましたがそれを工事でダムを設けコンクリートで固めてからは水質が汚れ、生き物がいなくなり、暑くなると嫌な匂いが漂っています。そもそもの神社とともに守ってきた自然の水の流れ、浄化という本質から離れて人間の都合が優先してしまうと修理の意味をなさないように思います。

自然を敬い、自然に見習うということは、自分の中にある自然と対話をすることに似ています。自然は常に内部から訪れるものだと私には感じるからです。内部から来る自然によく耳を傾け、勇気を出してじっくりと待つことが本来の自然であろうと思います。

せっかちなのはまだまだ常識に囚われている自分への警鐘であろうと実感しました。自然治癒に感謝し、その自然の自信を今日の実践に換えてまた使命を探求し、捧げ切る日々を楽しみたいと思います。

 

  1. コメント

    困っていることを困っていると言えず、一人で乗切ろうと心が治まるのを待っているのは何なのだろうと立ち返っています。求めているのはそこではなく赴くままの姿だと感じています。待って信じることが如何ほどか分からぬ自分に素直や謙虚、感謝は程遠く求めて行動していくことが今必要なことなのだと考えています。

  2. コメント

    仕事柄、体調が悪くなると、気合を入れ、あらゆる手を尽くして一晩で何とかする、あるいは、一時的にでも症状を抑える、ということを繰り返してきました。こういったその場しのぎ的な生き方が「自ら治る力」を更に弱めてきたのでしょう。病のときは、症状の出ている部分だけでなく体全体が病みます。結局は、日頃の健康度が治癒力と治癒にかかる時間にも影響するでしょう。今さらですが、日頃の食事、睡眠、運動、それに部屋の温度等の「生活環境」全体の見直しを痛切に感じ、少しずつ工夫し始めているところです。

  3. コメント

    病とは、風邪や何かのように現象として現れるものの事ではなく、そうなる自分の習慣、風習、生き方の事を指すのだと感じます。ここは、自分では気付きづらいと感じます。自分の大前提が病になっているなど、認めづらいと感じます。まだまだ、私自身深められず実践も浅い領域だと感じます。生き方と働き方の一致を頭ではなく、実践から学んで行きたいと思います。

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