生きていく中で、自然から学んでいくものに原理原則というものがある。それは「与えるものが与えられる」や、「めんどくさいことを進んで行うことで感謝が増える」や、「自分がしてほしいことを相手にする」など、数えればきりがないほどこの世は目には観えないけれど偉大な法則のなかで私たちは生かされているといっていい。
原理原則とは、そういうこの世の中の絶対的な法則でありその中で私たちは悠久の流れと循環の中で自然とともに生きている。
私も日々の仕事の中で、教えようとすることはその知識や認識の方ではなく素直に自然から学び体得したことを自分の実践を通じて感化できればと思ってしまうことで不自然になりつい原理原則を語っていることを忘れてしまうことがある。
それは考えるということと感じることということの違いでもある。
気が付くと、あいさつも掃除も、また生活のことも祈ることも、受け手が頭でばかり理解しようとされると考えるばかりになり原理原則には気づかれはしない。深い愛情も、そして感謝も、または得難い機会などもすべては素直に感じることで受け取ることができるもの。
つまり原理原則は素直に感じて学ぶことであり、それを頭であれこれとするものではない。まず素直になることで原理原則を教えてくださっているのだと感謝し、素直にそれを実践し守り続けることで本質であることや本物であることを理解することができる。
真似をするといっても、表面上の真似は空マネでありそれは自分に都合の良い解釈をただしているだけであり、本当に真似をするというのは素直にきっと何かあるのだと信じて同じようにやってみながら差異を掴み取り学び抜くことでもある。
頭でっかちに認識することや何か知識を詰め込めばいいと勘違いしてそういう原理原則を学んでいても、どうせ長続きせず途中であきらめてしまい結局は何も原理原則を体得できずにわかった気になって気づくことがない。
これでは、知識だけは膨大に増えても結局は一つのことも悟れなかったとなってしまう。そういう人の教えに触れられないというのは、真理が傍にあっても永遠に理解できないということになってしまうのだろうと思う。
人生とは、何か不自然だったのではないかと感じるところが大人の刷り込みを取り除く出発点であり、原理原則の中に必ずバランスの悪いところがでているのだからそれを修正するのは自分自身でないとどうにも本懐を遂げる道理を身に着けることはできない。
論語にこうある。
「冉求曰、非不説子之道、力不足也、子曰、力不足者、中道而廃、今女画」
冉求(ぜんきゅう)曰く、子の道を説ばざる(よろこばざる)には非ず(あらず)。力足らざるなり。子曰く、力足らざる者は中道にして廃む(やむ)、今汝(なんじ)は画れり(かぎれり)。
これを訳せば、弟子の冉求がいうには、「先生の道や教えを学ぶことを喜んでいないのではありません。私が学ぶ力が不足しているから困っているのです。」それに対して孔子が言う、「力不足のものは、途中まで進んで力尽きていつもそれを途中でやめてしまうものだ。今の君は初めから、見切りをつけてあきらめてしまっている。」という意味になる。
素直でないから、最初から見切っているのであり、素直でないからいつも途中でやめてしまうのだと思う。素直に感じるとは、道を学ぶことを心底喜んでいくことであり、学ぶ力が不足していると思うのではなく、受け取る側が素直に聴こう学ぼうとしないだけであると私は思う。
会社でも、何度原理原則がそうだからと話をしても最初から見切りをつけている人が多い。どうせやっても特に何も変わらないし見返りもないと思うのかもしれないけれど、素直に感謝していれば自分のために教えてくださったのだからものになるまでやり切ろう、やり抜こうとするのが本来の自然の姿である。
学びというのは、何のためにあるのかといえば、心を澄ませ感じる力を伸ばしより周囲の様々な変化に柔軟に対応し豊かに悠然とあるがままに道を歩んでいくためのものでもある。
それが自分のつまらないエゴのためだったり、目先の損得のために学ぶのでは最初から素直な気持ちになることはできはしない。
まず素直であることは、原理原則を学ぶために丸ごと受け取りやり続けることからはじまることであり、自分から先に見切りをつけてあきらめてしまうことでは決してないと自覚することが大事なことだと思う。
いつまでも同じことを繰り返すのは、素直でないからであり、いつまでも無力感を感じて困っているのは力不足ではなくはじめからあきらめているからであると思う。
以前、ある人になぜいつも自分から先にあきらめるのかと尋ねたけれどこれはきっと素直にあるがままで受け取るための素直さがまだ引き出されていないからであるともいえる。
私は、子どもを思えば能力があるなしやできるできないなどとし無理に教えることはやはり決して良いことにはならないと気づいた。
相手がどうであれ、原理原則にそって自分が素直にいることが大事であり、それができないのなら自然に素直に学べればいいなと祈るような気持ちでこういうやり方もあると伝えていけるような感覚を持っていたい。
なぜ分からないのだろうと思って何度も教えてしまうのをやめ、ただ素直でいればそのうちにできるようになると素直な自分の学びの姿勢を伝えていきたい。
自分と異なるのは、ただ異なるだけとし、子どもたちにも素直であれば違いはないとし道理に対して誠実に生きていきる模範を示していきたいと思う。
コメント
今の時代は、自然に物事を視る事や感じることが出来なくなっているのだと思います。又知識としては多くを入れる環境は今あったとしても、自然などから感じ取る事が出来る環境は減ってきていると思います。又同時にぶれない自分自身を持っていないと様々な事に気づくことが出来ない時代ではないかと思います。その中でやはり大事になってくるのが素直な自分であれるかだと思います。同時に素直とは何かという事がまだまだ理解できていないし実践できていない自分がいます。先ずは、在りのままに物事がみれる自分、間違いに気づき変わることが出来る自分である事を大事にしたいと思います。
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人間は自然界と同じく生命を持って共生しながら生きていくことを前提で考えると、生きながら色々と余計なものをつけて生きているのだと実感しますが、もしかすると悟りとはその余計なものを取り除く作業なのかもしれないと思います。自我に芽生え、執着に囚われ、あるがままでは生きれなくなる。何があるがままなのかさえ、わからないのが率直な思いですが、自分と向き合い会話し、自分とは何者なのか、自分は何のために生まれ、何のために死んでいくのかを問い続けることが一つのテーマなのかもしれませんが、生きることに素直に苦を楽しみながら、不安や迷いと付き合っていきたいと思います。